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パブリカを16分ほど走らせて白金高輪の住宅街に滑り込む。豪邸のような葛城家の前で秀夫が慌てふためいている様子だった。エンジンを切ることなく降りると彼は焦った声で言った。 「この辺りは探したんだけど、どこにもいない。」 「他に思い当たる場所はないんですか。」 「あるけど、歩いて行ける距離じゃない。あいつどこに行ったんだ。」 やがて3人は今一度辺りを探し回ることにした。路地の奥、近くのコンビニやスーパー、公園。いくら探し回っても見つかることはなく、気付けば30分が経過していた。 「おい、由紀子!いないのか!」 閑静な住宅街に秀夫の叫び声が響く。夜に沈んでいくようだった。もう一度違う場所を探しに行こうと結論づいた時、永島はふと立ち止まった。 「友哉、どうした。」 遠藤の声も、秀夫の叫び声も、全てがくぐもっているようだった。その代わりに別の声が頭の中に響いている。 『こっちだよ…。』 子どもの声だった。それが間隔をあけて永島の脳内に語りかけている。不思議な感覚だった。心の中で呟く言葉、それが自分のものではない。 『こっちだよ…こっちだよ…こっちだよ…。』 少しして声の正体が分かった、それと同時に永島はパブリカの運転席に乗り込んでシートベルトを締めた。慌てて2人が駆け寄って、車に滑り込んでくる。 「友哉。どこに行くんだ。」 「中野坂上。中村一家が住んでいた跡地だ。」 言葉少なにパブリカは住宅街を抜けていった。ありえないことだとは分かっていても、それでも頭の中に響いた声を信じるしかなかったのだ。中村諒太の声に引っ張られるように東京タワーの傍をすり抜けていく。車で約24分という道のりは、徒歩にすれば約2時間ほど。その距離を裸足で移動するなど考えられなかった。それでも永島はハンドルを切った。 パブリカは住宅街の中に入り、慣れたハンドル捌きで路地に滑り込む。ヘッドライトで照らした前方。とっくに解体された家の跡地、広がる土の上で1人の女性が立っていた。 「由紀子、由紀子!」 無理にシートベルトを外して外に飛び出る。しかし永島はその”異常”に気が付いていた。慌てて彼の後を追う。 「秀夫さん、近付かないで!」 彼を追い越して手で制止する。秀夫は何か言っていたが、その声は耳に入らなかった。それは葛城由紀子の出で立ちだった。 土の真ん中、直立不動のまま明るい夜空を見上げている。その喉を彼女の両手がとてつもないスピードで掻き毟っていた。頭の中で5年前の出来事がフラッシュバックする。新田光博の喉を掻き毟るという癖。車の明かりに照らされた由紀子は目をぱっくりと開けて喉を掻いている。ただそれだけの光景が、ひどく恐ろしかった。 「2人とも下がって。」 永島はチノパンのポケットからペットボトルを抜いた。数回振って蓋を開け、白く濁った水を自身の周辺に撒き散らす。こちらに霊が干渉しないようにする結界だ。 そして茶封筒を取り出し、中から6枚の呪符を抜く。それをぺたぺたとコンクリートに貼り付けた。塩水の円の中心に胡座をかき、親指の腹を噛む。血を出して眉間に当てながら呪文を唱え始めた。 異変は続いて起こった。 彼女の足元、赤茶色だったはずの土が黒く濁り始める。遠藤は目を細めてそれを見た。ただ色が変わっているだけかと思ったが、どうやら違っていた。彼女の周りから泥が噴き出しているのだ。それはぼこぼこと、煮え滾ったお湯のように。 両手を合わせて永島は呪文を唱え続けた。それでも泥は湧いている。 ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ やがてその泥は跡地の敷居を跨いでコンクリートに漏れた。弱々しい生き物が這い蹲るような速度で泥がコンクリートを侵食している。永島に近付いている。遠藤はレザージャケットの内ポケットから数珠を抜いた。解れた糸を切って黒く小さな玉を前にばら撒く。散弾のように玉がコンクリートに落ちると、泥のスピードが落ちた。永島は一言だけ呟いた。 「ダメだ、これ以上は。」 眉間に当てていた親指の腹を目の前の呪符に持っていく。6枚の呪符それぞれに血液で罰印を描いた。その瞬間、泥が消えた。 それだけではなかった。喉を掻いていた両手をだらんと垂らし、由紀子は空を仰いだまま真後ろに倒れこんだ。 「由紀子、大丈夫か。」 慌てて秀夫が駆け寄り、彼女の上体を起こした。遠藤も後に続いて由紀子の細い腕を手に取る。 「眠っているだけだ。友哉、これは一体どうなっている。」 永島はゆっくりと立ち上がって6枚の呪符を剥がした。ポケットからライターを抜いて火をつけ、その場で燃やしてしまう。小さな火で消し炭になっていく呪符を眺めながら言った。 「祓ったわけじゃない。動きを止めただけだ。とにかく家に戻ろう。」 深い眠りに落ちた由紀子の体を抱きかかえ、秀夫は敷居を跨いだ。遠藤も戻ろう一歩踏み出した時、足元に妙な感覚があった。 白いスニーカーを汚す泥だった。まだ泥は消えていなかった。爪先でそれらを横に引き伸ばす。その真ん中に小さく光る何かを見つけた。 「鍵…?」 金色の小さな鍵、決して家を開錠するような代物ではない。手で泥の汚れを払って、何気なくポケットに突っ込んだ。
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