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2月14日。遠藤は事務所のある建物の階段を降りて4階に到着した。遠藤相談屋が入るまでここは焼肉店だったという。扉を開けるとテーブルや椅子が乱雑に置かれていた。壁を弄って4階の電気を灯す。ジジッ、と照らされた奥で佐々木は膝を抱えていた。 「佐々木、体調はどうだ。」 彼の首元には黒いマフラーが巻かれていた。それに顔を埋めていた佐々木はゆっくりとこちらを見た。窶れて虚ろな目。彼は辿々しく言った。 「だ、大丈夫です。変な現象は、ない、ですけど。でも、時間が、経つたびに、こ、怖くて…。」 体調こそ普通だが、精神状態はすこぶる悪いのだろう。長いため息が続いた。マルボロを1本抜いて火をつける。薄い電灯の下で濃煙が漂った。 「こっちの準備はできた。行くぞ。」 佐々木は恐る恐る頷いて立ち上がった。黒いマフラーを大事そうに握って廊下に這い出る。彼を連れて5階に上がると遠藤相談屋の扉に札がかかっているのが見えた。close。除霊の準備は大がかりだった。 「佐々木さん、あんたに霊が憑いているわけじゃない。だから心霊現象が起きてから除霊を始める。何か不自然な声や音が聞こえたらすぐに言ってくれ。」 「わ、分かり、ました。」 椅子やテーブル、ソファーなどは全て奥の部屋に仕舞った。床や壁、天井には夥しい数の呪符が貼られている。フロアの4つの隅で背の低い松明が火を揺らしていた。 永島の指示で佐々木はフロアの真ん中に立った。視線を泳がせながら不安がっている。遠藤は壁にかかっている時計を見た。18時58分。誰もが思う夜という時間帯はもうすぐだった。 秒針が時間を刻む。たった2分間が恐ろしく長かった。やがて長身が上を指そうとした時、佐々木の前に立つ永島がぼそっと呟いた。 「来るぞ。」 その刹那、事務所を照らす電灯が全て粉々に砕けた。明かりを失ったフロアの真ん中で佐々木は短い悲鳴をあげる。しかし永島は動じなかった。松明の火で部屋は明るいままだった。 「始める。」 両手を合わせ、永島は呪文を唱えた。遠藤は未だにその言葉の意味は分かっていない。しかし彼の声色はいつもよりも低かった。 最初の異変はすぐに訪れた。 「ああ、ああっ!」 突然大きな悲鳴をあげた佐々木は耳を塞いでいた。 「どうした、佐々木。」 「こ、声がした、殺すって、殺すって!」 大丈夫だと言いかけた時、佐々木が巻いていたマフラーの端が突然真上を向いた。そのまま佐々木の体は宙に浮いて彼は誰かに吊るされた。そして彼の体は左右に揺れ始めたのだ。 「がっ、がぁ…。」 耳を塞いでいた両手を首元に持って行き、必死に抗っている佐々木を見て遠藤は駆け出した。永島に渡されていたハサミをポケットから抜いて彼のマフラーに刃をかませる。布は非常に切れにくいものの、がむしゃらに切り刻んでいくと解れるのはあっという間だった。 「や、やめ…殺さないで、お願いだから…。」 座り込んだ佐々木の首からマフラーを解く。しかし彼は遠藤や永島のことなど眼中にないような表情だった。遠藤の背後を見上げながら口を鯉のように開いては閉じてを繰り返す。恐る恐る背後に視線をやった。”それら”を見たと同時に永島がぴしゃりと言った。 「目を見るな、泰介、佐々木。」 泥の塊だった。人の形をした泥の塊が5体、遠藤と佐々木を見下ろしている。おそらく今自分が目にしている場所は腰の辺りだろうか。何故か泥は波打つように蠢いている。 その場から動けなくなってしまった。佐々木はもう泥と目を合わせているのかもしれない。虚ろな目がぱっくりと開かれている。その時だった。 「の、め…。」 どこからともなく低い唸り声がする。やがてその声は泥が発していると気が付いた。 「佐々木の口を塞げ、泰介!」 その場にあったマフラーを手に持ち、ぐるぐると丸めて佐々木の口に当てがう。それでも彼は目をカッと見開いたままだった。必死に首を横に振っているため、何度かマフラーの位置がずれてしまう。 「のめ…の…め、の、め…。」 女性の声が加わったように聞こえた。その瞬間、抑えていたはずの佐々木の口から液体が溢れ出した。 それは吐瀉物ではなく、泥だった。 意地でも離さないようにマフラーを押し付ける。しかし佐々木はそれを振り解いて立ち上がった。口から泥を垂らしながら。 「やめ、やめて…もう嫌ろろろろろろろろろろろろろ」 千鳥足のように佐々木はふらついて、自ら口を押さえていた。壁にぶつかっては倒れて、また立ち上がって、口を押さえて、歩いている。 「くそっ、どうして効かないんだ!」 永島はそう叫ぶも、何も変わらなかった。 「死にたくなろろろろろろろろろろろろまだ僕ろろろろろろ嫌だろろろろろろろろろろ」 遠藤は確信した。口を押さえている佐々木は泥を吐くことを我慢しているのではない。 泥を、呑んでいるのだ。 「の、め…のめ、の…め…呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め呑め」 呻き声が響き渡る。永島が唱える声はそれに負けていた。まるでこの空間が呑まれていくようだった。 「嫌だ死にたろろろろろろろろろろろろろろろろろ許しろろろろろろろろろろもうろろろろろろろろろろろ」 それまで明るいと感じていた松明の火が唐突に弱々しくなったかと思うと、佐々木は呪符が貼られた壁に背をついた。両手で口元を押さえながら引き続き泥を呑んでいる。 「ろろろろろろろろろろうめよろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろうめよろろろろろろろろろろろろろろろろろうめよろろろろろろろろろろろ」 泥を吞み込む音に、佐々木ではない声が加わった。その声の主は考えなくとも理解出来た。新田光博が彼の体を介している。永島はすぐに立ち上がって佐々木の前に立った。声を張り上げて負けじと呪文を唱えていく。 突然泥を呑む音が止んだ。口元を押さえたまま佐々木はこちらを見た。眉尻を下げた悲しい瞳。虚ろな目から大粒の涙がこぼれ落ちる。 「テヲダスナ、コレイジョウ、テヲダスナ」 「新田光博。そこから出ろ。」 永島は名指しでそう叫ぶと新たに呪文を唱え始めた。しかし佐々木の体を介した新田光博は続けて言った。 「コレイジョウ、テヲダスナ、コレイジョウ、テヲダスナ、コレイジョウ、テヲダスナ、コレイジョウ、テヲダスナ」 まるで機械のように話し、両手で押さえた口から彼の言葉が2人に届く。永島は全身に力を入れて両手を合わせていた。肩が震えている。まるで自分の筋肉を破裂させるかのように強張らせていた。 「ろ、うめよ…ろうめよ…。」 最後の言葉は新田光博ではなかった。確かに佐々木康之の声で、そう呟いたのだ。両腕をだらんと垂らして佐々木は天井を見上げた。声も、泥を呑む音も、何も聞こえない。やがて佐々木の細い喉に複数の掻き傷が浮かび上がった。まずい、と呟いて遠藤が駆け出そうとした時、その掻き傷から大量の血液が迸った。ダムが決壊するかのように鮮血が呪符の床を濡らしていく。まるで身体中の血を全て吐き出したかのように、軽くなった佐々木の体はそのまま倒れこんだ。
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