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数日空き、2人は葛城家を訪れた。もう少し日を空けてからの訪問と決めていたのだが、慶からの連絡を受けて早めることにしたのだった。 母さんがおかしくなった、という通報だった。 未だに渋い表情を浮かべる秀夫に出迎えられ、リビングに入る。その瞬間に2人は肌で感じた。あまりに暖房が効きすぎている。 ソファーに座って由紀子は前屈みになっていた。白いタートルネックに黒いコート、縮こまった様子で彼女は自身の爪を噛んでいた。顔は痩けて虚ろな表情のまま座っている。ゆっくりと2階から降りてきた慶は言う。 「ご飯も作らなくなって、食べなくなって。何を言っても答えなかったり。後は、コップとか、皿とかを割るように、なってきて。今まで、そんなことはなかった、のに。」 秀夫は椅子に腰掛けて腕を組んでいた。何かに苛立っているように見える。由紀子の向かいのソファーに腰掛けて永島が一言呟いた。 「これは確かにまずいな。霊が生前抱いていた感情がそのまま体に表れている。こんな分かり易くて危険な霊障はかなり重度だな。」 どう対策を練るべきか、永島が彼女に憑く霊を観察し始める。由紀子の隣で美智花が心配そうに彼女を見つめている。すると突然秀夫が口を開いた。 「本当は霊の仕業なんかじゃないんだろう。ただ家事や育児の怠慢をそれのせいにしているだけだ。俺が汗水垂らして帰ってきても飯がないなんてありえないんだからな。聞こえているのか、由紀子。」 彼女が裸足で家を抜け出し、徒歩で2時間はかかる場所に佇んでいた奇妙な光景を、彼は忘れてしまったのだろうか。遠藤は跳ねた毛を掻いてため息をついた。秀夫は小刻みに右足を震わせながら続ける。 「全く、霊だなんてくだらない。大体おかしいんだよ。俺は良い家庭を築こうとしているにも関わらず。慶、お前はくだらない理由で引きこもりになって、お前は霊を理由に家事をサボっている。いい加減にしろ。」 リビングに重い空気が流れていた。おそらく秀夫はこのように家庭の主導権を無理やり握っているのだろう。遠藤は腸が煮えくり返る思いを何とか押し殺していた。 「誰が稼いでこの家を守っていると思っているんだ。俺が企業を動かして稼いでいるから生活ができているんだぞ。穀潰しに家事放棄だと?ふざけるな!」 突然声を荒げるものだから、由紀子の隣にいた美智花が声をあげて泣き始めた。由紀子は宥めることもできずに爪を噛み続けている。遠藤が泣き止ませようとしたところで秀夫は再び言った。 「うるさいぞ。泣き止ませろよ由紀子。」 「おい、あんたいい加減にしろよ。」 ガラスのテーブルを勢い良く叩き、遠藤は立ち上がった。秀夫は少し驚いた様子だったが気に留めることもなく詰め寄る。椅子に座ったまま腕を組む秀夫を見下ろした。 「何が良い家庭を築くだよ、あんたの傲慢が家庭を壊していることに気付いていないのか。もう我慢の限界だ。おい友哉、あの事こいつに話すぞ。」 感情に任せた発言だったが、冷静な永島は一度だけ頷いた。その様子を見て再び秀夫を見下ろす。 「あんたが大企業の社長だろうが何だろうが、家に帰ったらただの父親だろうが。外での権力を家の中でも振り翳すなんてどうかしているだろ。」 「何だ、君は家庭を持っているのか。」 「持ってないよ。だったら何だ、君には分からないとでも言いたいのか?分かっていないのはあんただ。由紀子さんの気持ちも慶の気持ちも考えないで、自分が正義だと踏ん反り返る。あんたが築いているのは最悪の家庭だ。」 言葉尻を遮るかのように秀夫は立ち上がった。椅子が引いて鈍い音がする。それでも遠藤は全く臆することなく言った。 「美智花ちゃんは、あんたの子どもじゃないぞ。」 鳩が豆鉄砲を喰らったような表情だった。怒りに震えていた秀夫の表情筋がピクピクと痙攣している。それでも遠藤は続ける。 「パイプ証券の同僚だよ。その不倫相手と日翠山という場所に行って美智花ちゃんを身ごもり、同時にそこに眠る呪いを美智花ちゃんが継いでしまった。」 「おい由紀子、これはどういうことだ。説明しろ。」 遠藤をすり抜けるかのように秀夫はソファーに向かったが、由紀子は依然として爪を噛みながら一点を見つめるのみだった。自我を失った人、そんな印象である。 「説明できる状況じゃないから俺が言ってんだろうが。」 「おい、俺に怒るのは違うんじゃないのか。あんたが言っていることが正しければ、お前たちの言う心霊現象とやらが起きたのは由紀子の責任だろう。俺は何も悪くない。」 「引き金に指をかけたのはあなただろう。」 そう呟いた永島の一言で、リビングに再び静寂が訪れる。彼は持参したショルダーバッグから今回の件をまとめた資料に目を通しながら続けた。 「家庭を壊す道具は拳銃だ。たった一発の銃弾でヒビが入る。問題なのはそれを引いた人間じゃなくて、それを引かせた人間だ。あなたがその拳銃の引き金に由紀子さんの指を引っ掛けたんだ。毎日のように吐く小言がストレスという名の拳銃を生み出す。責任転嫁はするな。それにな。」 テーブルを資料で叩き、整えてから彼は続ける。 「霊は人の感情を見ている。悲愴的、精神的に参っていると感情には穴が開く。れんこんみたいにな。霊という存在はその穴に滑り込んで生きている人間の感情を侵食していくんだ。由紀子さんの感情に穴を開けたのは他の誰でもない。あなただ。」 秀夫は何も言い返せないようだった。なんとか話を逸そうと視線を泳がせている。 「おい、その不倫相手は今どこにいる。」 「死んだよ。俺たちの目の前で、その呪いで。少し前に喉から大量の血を流してな。」 慶はただリビングの隅に立ち尽くしていた。長い髪のせいで驚いているのか、怒っているのか、まるで分からなかった。 「秀夫さん、今が正念場なんだ。ここで体勢が崩れたら本格的にこの家庭は崩壊する。俺は昔から100を越える案件を扱ってきたが、この呪いはトップクラスでやばい。そう言えば分かるだろう。」 永島はそう言うと左目付近のこめかみを摩った。眼鏡の真ん中を指先で押し上げる。その裏で彼の目がギラリと光ったような気がした。 「今晩、泰介も一緒に泊まらせてもらいます。あの呪いに関わった人間はほとんどが死んでいるんだ。奴らが次に狙うのは、間違いなくこの家だ。秀夫さん、本当の意味で家族を守ってください。」 ようやく永島の説得力が勝ったのだろう。秀夫は苛立ちを消した表情で思い詰めたようだった。 日の光が白金高輪の一等地に差していた。それほど明るいとは、思わなかった。
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