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最初の異変が訪れたのは日付が変わった午前1時だった。夫婦と長女が眠る客間の扉には呪符を張り巡らせて完璧な防霊を施している。白い明かりが煌々と照らす客間の真ん中、永島が突然呟いた。 「来る、第一波だ。」 その言葉を言い終えたと同時に、ずずぅ、ずずぅ、と何かが這うような音がした。この期に及んで気のせいだとは片付けられない、不穏な音。それと同時にサーマルカメラのシャッターが切られた。 「どこだ。」 「1階の廊下、洗面所の手前だ。」 永島が持ち運んだ機材の中には小型カメラの映像をモニタリングするためのモニターがあった。区切られた小さい枠の中、1台のカメラがシャッターを切っている。それも5秒間という時間を空けて、連続して鳴っているのだ。 「ど、どうするんですか。」 慶は怯えた声で言う。その時だった。 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ 葛城家の中に張り巡らせた鳴子がけたたましく鳴り響いた。遠藤にはその音が、まるで挑発しているかのように聞こえた。永島も同じ気持ちだったのか、低い声で言う。 「来いって言ってるな。」 鳴子が震えている。永島にとっては出迎えていると捉えられるのだろう。慶は力無く言った。 「これ、こっちに来るとか、ないですよね。」 「分からない。俺たちを誘っているんだとしたら、1階に降りた後執拗に追いかけてくる、そういうやり方だろうな。」 そう言うと永島はボストンバッグの中を漁った。透明な袋に入った白い粉。慶は目を丸くした。 「危ない薬、ですか。」 「塩だよ。俺が清めた特製の塩だ。とりあえずこいつを頭からかぶれ。」 遠藤は慣れた様子でそれを受け取り、小袋から塩を抜いて頭髪に散らばせた。軽く頭を振る。その姿を見て慶も見様見真似でやってみせたものの、途中で彼は咳き込んでいた。 「泰介、リビングの温度は。」 携帯ほどの大きさをした液晶画面に目を通す。今夜の平均気温は10度。しかしデジタルの小さな画面には0度と表記されていた。 「0度。これ強行突破するしかないんじゃないか。」 遠藤の言葉に永島はゆっくりと頷いた。気温を著しく低下させる霊障、シャッター音と鳴子が喧しく鳴り響く中で恐る恐る立ち上がった。 扉の隙間から顔を覗かせ、薄暗い廊下の先を見る。そこで永島は息を呑んだ。3人が廊下に出たと同時にシャッター音と鳴子の音が突然止んだのだ。鼓膜に張り付くかのような静寂が鬱陶しく感じる。 ギィ、と床が軋む。階段に向かって歩いていくと、その途中で慶は短い悲鳴をあげた。 「あ、あの、床に…。」 窓から差し込む月明かりに照らされ、階段の手前に泥の塊があった。 「まずいな。こいつら、もう家の中まで犯そうとしている。」 永島はそう呟くと、ペットボトルのキャップを開けた。夏のコンクリートに打ち水をするかのように塩水を撒き散らす。薄い白濁液がかかった泥は反発する砂鉄のように引いた。慶は口元を手で押さえていた。遠藤と永島は息を呑んで歩を進めていく。カーブする階段を一歩一歩踏んでいった。 ギィ、ギィ、ギィ、と板がしなる音がする。手すりを撫でてカーブする階段を降る。ドクッ、ドクッ、と派手な音を立てて心臓が動く。生唾を飲んだ。その音が誰かに聞かれてはいけない、慶は再びそう直感していた。 階段の途中、扉の閉まったリビングから突然笑い声が響き渡った。秀夫でも、由紀子でも、美智花でもない。その声に聞き覚えがあった遠藤は思わず呟いていた。 「中村一家だ…。」 諒太の幼く無邪気な笑い声、啓一郎の高らかな笑い声、美佐の気品ある微笑み、遠藤は5年前を思い出していた。幸せだった家庭を突如引き裂いた怨霊。永島はリビングに入るための扉を勢い良く開け放った。 そこには、誰もいなかった。 目に見える情報はそれだけである。しかし3人は確かに人の気配を感じていた。このリビングには複数人いる。しかし青い光に照らされた薄い空間に影も形もないのだ。やがてその異変は再び蠢いた。 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ 鳴子が鳴り響く音に続いて、サーマルカメラが一斉にシャッターを切り始めた。 やがてリビングに置かれた置物、絵画を収める額縁が一斉に割れた。派手な音を立ててガラスが1階に飛び散っていく。両耳を抑える慶が再び悲鳴をあげた。 「ど、泥…。」 ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ リビングの床から月で光る泥が湧いている。それは這い蹲る人のように這っていた。明らかに3人を呑み込もうとしている。それを逸早く察知した永島は両の掌を背後に振った。遠藤はそれが客間に戻れという合図だと知っていた。慶に小声で言う。 「行くぞ、このままだと呑まれる。」 3人は慌てて階段を駆け上がった。足が縺れて歩行が困難になっている。最後尾を歩く遠藤がその違和感を覚えて足元を見た時、黒いスウェットから伸びる遠藤の足首に、泥が纏わり付いていた。それが蒼白い子どもの手に見えて、遠藤は言葉を詰まらせた。 「泰介、見るな。上がれ。」 永島の言葉に少しだけ正気を取り戻した遠藤は、泥を引き抜くように右足を振った。慶の背中を押して階段を上がっていく。微かに空いた客間の扉、隙間から白い光が漏れていた。 ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ 「入れ、入れ!」 廊下の途中で止まり、永島は2人を部屋の中に急がせた。その瞬間に遠藤はあの声を聞いた。 「ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…」 低い唸り声が頭の中を犯す。すぐに不安が駆け巡った。さっき足首を掴まれた時に自分も犯されたのではないか、自分も霊に取り憑かれたのではないか。しかし遠藤は長く連れ添った永島の言葉だけを信じた。そそくさと駆け上がって客間に滑り込む。眩い明かりが強く目を刺激した。 「友哉、お前も入れ!」 開け放った扉の向こう、永島は廊下を睨みつけていた。ペットボトルを握りしめて、もう片方の手には数珠を握っている。永島は2階に這い上がってきた泥から目を離さなかった。心の中で秒を数えていく。心の中で数字が0になり、それと同時にペットボトルの中身を全て廊下に撒いた。やがて追い打ちをかけるかのように、糸を解れさせた数珠を泥へ放り投げる。幻覚、幻聴、そして霊障を遮る手段は有効打だった。まるで慌てて逃げ出すかのように泥は壁、天井を伝っていって消え失せていく。 永島は首の骨を鳴らしながら客間に戻ってきた。重たそうに口を開く。 「もうこれ以上待つことは出来ない。明日の夜、全てを終わらせる。」 こめかみを撫でて眼鏡の奥をギラリを光らせた。永島の決意に、2人は頷いた。
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