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小さな木のテーブルに結婚指輪を置く。永島は大幣を持つと勢いよく頭上で振り始めた。それと同時に彼の低い声が呪文を唱えていく。リビングの端、松明の隣に立つ慶は遠藤に言った。 「どうやって、除霊を行うんですか。」 秀夫は2階に戻って美智花と共に客間で待機している。いつ電波のように霊障が飛んでいくかは分からない。 「あの結婚指輪を使って、霊を誘い出す。隙を見せたらこっちの番だ。」 右手首にかかる数珠をずらして握り込む。体の中で鼓動が恐ろしいほど早くなっていた。そのままこの家全体に響き渡るのではないかと思うほど、緊張感が高まっている。音を立てて唾を飲み込み、遠藤はポケットから小さな電気の板を抜いた。ウェザーステーションは2度を記録している。家の中で起こる明らかな異常気象。冷えていくリビングの数値を見て微かな危機感を覚えた遠藤の目の前で、異変が始まった。 どこからともなくリビングに突風が吹き荒れたのだ。窓は閉め切っているにも関わらず、体を圧迫するほどの風が破裂するような音を立てて吹く。松明の火がぼうっと揺らいだ。 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ 鳴子がけたたましく震え始める。やがて家中を駆け巡る不規則な突風はリビングの小物などを巻き込んで床に転がり落ちていった。その時だった。 「ろうめよ…ろうめよ…」 どこからともなくあの低い声がする。誰かが話しているというよりも、壁や天井から声が染み出しているように聞こえた。この家がろうめよという意味不明な言葉を呟いている。そういう風に聞こえてしまうのだ。 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」 突然由紀子はぐるんと首を回して天井を見上げた。目と口をパックリと開けて甲高い叫び声を上げる。改めて美智花をここに連れて来なくてよかったと遠藤は安堵した。しかしその安心はすぐに不安の色に変えられてしまう。 「たすけろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろやめろろろろろろろろろろろろもういやろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ」 由紀子の絶叫がこだまする。そしてその声に計り知れない不安を覚えた。佐々木康之が死んだ時と全く同じ声色だったからだ。そしてその不安を弄ぶかのように、異変が続いた。 「いやろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろたすけろろろろろろろろろろおええええええええええええええええええ」 首を伸ばし、天井を睨みつける由紀子がガタガタと震え始め、椅子の脚が床を叩いていく。そして遠藤と慶は息を呑んだ。由紀子の口と鼻、耳から泥が噴き出たからだ。 「か、母さん!」 慶は細い声で叫ぶ。しかし遠藤は分かっていた。これは霊がもたらす幻覚である。これは葛城家への挑発だ。 「大丈夫だ。落ち着け。」 慶が駆け出そうとしたために遠藤は思わず彼の手を掴んだ。再び5年前を思い出す。大声をあげて霊障に苦しむ中村諒太の幻聴を聞いて駆け出した啓一郎。あの時にしっかりと止めておけば彼らが死ぬことはなかった。慶は長い間引きこもっていたということもあってか、力が弱かった。細い手首を握って手前に引き寄せる。なんとか冷静さを取り戻した慶を見て手を離した時だった。 「キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」 何かおかしなことがあって、無邪気に笑う子どもの声。すぐに中村諒太の笑い声だと遠藤は察知した。目を丸くして由紀子を見たが、彼女は未だに天井を向いて泥を吐き続けている。 「キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハいハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハどハハハハハハすハハハハハあハハハハハハのハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハいハハハハハハハハハハハハハハハハハハハやくハハハハハハハハハハハハハハやハハハハハハハまいハハハハハハハハハハハらハハハハハハハハてのハハハハハハハハハハハハへハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」 甲高い笑い声の中、低い男の声が聞こえた。耳をすませて遠藤はその声を探り当てていた。 「キャハハハハハハハハハハハハハいハハハハハハハハハハハハハハてハハいハハハハハハハハハハハいもハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハをハハハハハハハハハハハべハハハハハハハハハハハハハハハハハハさハハハハハいハハハハハハハそハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハべてハハハハハハハハハハハハハハハまハハハハハハハハハハハハハハハハへハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」 自信はあった。この低い声は中村啓一郎のものでもなければ、新田光博でもない。これは一体誰の声なのだろうか。 「キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハろハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハうハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハめハハハハハハハハハハハハハハハハハよハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」 このまま耳を塞いでしまいたかった。もう何も聞きたくない、この場からすぐに逃げ出してしまいたい。遠藤は下唇を噛んで拳を強く握りしめた。爪の先が掌に喰い込んで痛みが生じたものの、それでも遠藤は前を向いた。 しかし、その異変は加速していった。 「たすけろろろろろろろろろろろろおええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ出て行け。」 遠藤は永島の向こうを見た。椅子に縛られて天井を睨みながら泥を呑み込みんでいた由紀子は、ぐるんと首を回して項垂れると、新田光博の声を発していた。白目を剥いて、由紀子の体を介している新田光博。しかし妙だったのはその表情だった。笑っているわけでもない、怒っているわけでもない。由紀子は眉をひそめて、悲しそうな表情を浮かべていたのだ。 「もうやろろろろろろろろろおえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ出て行け、出て行け、出て行け、出て行け、出て行け、出て行け、出て行け、出て行け、出て行け、出て行け、出て行け、出て行け、でてい」 新田光博の声は、まるでテレビの電源を突然切ったかのように途切れた。それと同時に由紀子は項垂れ、再び起き上がる。そこには手足を縛られ、除霊用の白いワンピースを着た、中村啓一郎がいた。 「どうして、どうして助けてくれなかったんだ?」 中村啓一郎は恨みを込めた声で言う。遠藤は何も言えなかった。 「全て終わりにろするって、言ってういたじゃないめか。何故助けてくれよなかったんだ?」 低い別の声を交えて中村啓一郎は目を丸くしていた。やがて項垂れ、再び顔を上げる。由紀子よりも髪が長い中村美佐が遠藤をきっと睨みつけていた。 「あの子を返して、私の家族を返して、私たちを、返して。」 違う、そう呟いていたのかもしれない。遠藤は自分が何を言っているのかも理解できないまま壁に背をつけた。 「あの子を返ろして、私の家う族を返して、私ためちを、返しよて。」 ザッピングするかのように顔が切り替わる。椅子に縛られた中村諒太は少し汗ばんだ髪の下、つぶらな瞳で遠藤を見ていた。 「おかえり。ママはね、かいもの。」 幼く、聞き覚えのある声がする。遠藤の目だけを見つめている。 「それじゃパパはこっちからきて。わかんない。うん。蓮二くんとは今日あそんでないよ。おじさん、久しぶりだねー。うん。おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!おなかすいた!」 ずるずると背にもたれて腰を抜かした。きっと彼が両親に話していたであろう言葉がつらつらと、文脈を無視して流れていく。 しかし中村諒太は途中で言葉を止めた。無邪気な笑顔のまま、何も汚れを知らずに終わってしまった、中村諒太。遠藤は震える手を伸ばしていた。まだ俺が、助けられる。 「パパ、なんでぼく1人なの。」 「諒太。ごめんな、俺がもうちょっと…ちゃんとしていれば…」 「泰介!聞くな!」 永島の絶叫が響き渡り、遠藤は我に返った。その瞬間に永島は蹲り、あろうことか泥を吐き始めた。 「友哉!」 慌てて手の中に握りこんだままの数珠を放り投げた。小さな玉が床に落ちて散らばる音が、泥を吐き続ける音に掻き消えていく。 「遠藤さん、これ以上は、もう…。」 慶がそう呟いた時、由紀子が座る椅子の奥に泥の塊が浮かんだ。人の形をした泥が伸びて天井にぶつかり、首を曲げているようだった。それは由紀子と永島を見下ろしている。永島の言葉を思い出した。こいつの目を見てはいけない。しかしそんな危機感も意味をなさなかった。 「がっ、ぐふっ…」 泥ではなく血を吐いた永島は、左のこめかみを押さえて倒れ込んだ。彼が座っている辺りが泥と血で塗れている。もう大幣を振るうことも、呪文を唱えることもできずにいた。もう、除霊は失敗だった。 関東地方を包み込む大雨が葛城家を叩いていた。
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