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逃げるため、という理由もあったかもしれない。遠藤はハンドルを切りながら考えていた。パブリカは既に東京を抜けて埼玉県に入っている。板橋区と戸田市の間に流れる荒川を越えて高速に乗り込む。助手席に座る永島はしきりに左のこめかみを摩っていた。ここからは見えないものの、先程事務所を出る前に確認したところ、まるで皮膚の裏側に大きな虫が入り込んでいるように、古傷は浮いていた。 鶴ヶ島市を抜けて下道に入る。徐々に懐かしい光景が目に飛び込んできた。狭い車道を駆け抜けながら遠藤は言った。 「あそこのラーメン屋、潰れてるな。」 何気ない会話のつもりだったが、今の彼には何を言っても聞こえないのかもしれない。勘当された父親に15年ぶりに会うのだ。その緊張感を、両親を早くに失くした遠藤は理解が出来ずにいた。 2人が育った小学校の前を通り抜け、畦道に入る。ガタガタと音を立てながらパブリカは山道に入った。永島神社までの道のりは唯一舗装されている。すぐに車の揺れも収まった。 低い山の上、白に近い銀色の鳥居が目に入った。専用の駐車場はかなり広く、そして境内はそれに負けないほどの広さだった。永島神社は現在芸能人がお忍びで結婚式を挙げたり、警察の人間がお祓いに訪れるほど高貴な場所になっているそうだ。車から降りて真新しく様変わりした神社を眺めてから、2人は境内に入った。 アルバイトらしき巫女とすれ違って会釈を交わしながら、2人は本殿に足を踏み入れた。白く横に広がった春日造の中は薄暗い。目の前にそびえる祭壇は黄金の扉でその奥を閉ざしていた。ついつい見惚れてしまう内装だった。 「よく来たな。」 背後から声がかかる。その低く、聞き覚えのある声のほうを向いた。隣に立つ永島が息を呑むのが分かる。上下真っ白の装束を着て下駄を鳴らしながら階段を上がっている。少し面長の顔に鋭い目つきが遠藤ではなく、15年ぶりに会う息子を刺していた。ふんわりとした黒髪を真ん中で分け、口に咥えたタバコをしきりに燻らせている。遠藤は真っ先に挨拶をした。 「雄大さん、お久し振りです。」 「泰介。お前もでかくなったな。もう30だもんな。」 永島雄大はもう56歳だというのに、その肌にはツヤとハリがあった。生力に満ちているという印象だった。 「それでですね、雄大さんにお話がありまして。」 遠藤が事情を説明しようとすると、雄大は白くだぼっとした袖を振って手を翳した。 「知っている。ついてこい。」
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