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富津市の街中を駆けていくパブリカの助手席には、カーキのフィッシングベストを着た木本がいた。太い指にタバコを挟んで燻らせている。 「それにしてもいい車だな、旧車はいいな。」 座席を摩りながら木本は言う。ドリンクホルダーに入った灰皿にフィルターを叩きつけた。 「この先ですか。」 「ああ。右曲がってすぐの喫茶店。」 低い建物ばかりの交差点を右に曲がる。ハンドルを切りながら進んでいくと、すぐに喫茶店は見つかった。くすんだ木造の古民家はアンティーク雑貨が外からも見えた。車から降りて木本は太い指でガラスの向こうを指す。 「あの人。俺も久しぶりに会うなぁ。」 窓際のボックス席に腰掛ける女性は、テレビで紹介される美魔女という言葉がひどく似合う美貌だった。軽い鐘の音を鳴らして中に入り、こちらにやってきた女子大生くらいであろう店員に待ち合わせだと告げる。彼女は木本と遠藤に気が付いて立ち上がり、会釈した。上品な振る舞いに佇まい、木本は上機嫌になったのか、彼女の向かいに滑り込んで言った。 「相変わらず綺麗だなぁ。」 「木本さん、それセクハラになりますよ。」 「何言ってんだ、松尾さんっていったら学校のマドンナだったんだぞ?」 ねぇ、と付け加えて木本が笑いかける。しかし松尾玲子は意に介さず微笑んだ。 「初めまして、松尾玲子です。」 「突然お呼びしてすみません。遠藤相談屋から参りました、遠藤泰介と申します。」 赤茶色のテーブルに名刺を滑らせる。彼女はアイスティーを頼んでいたので、2人も同じものにした。 「それで、松尾さんは風見梨花と仲が良かったんですよね。」 遠藤がそう言うと松尾はどこか思い詰めた表情で頷いた。 永島神社を出て木本に連絡を取り、よりあの2人について調べようとしていた時、木本が松尾玲子を紹介したのだった。というのも、彼女は風見梨花と幼馴染らしく、家庭事情まで知っているそうだった。他にもアプローチをかけたらしいが、話をしてくれるのは松尾玲子だけだった。学校で嫌われていた2人のことを、たった1人しか話してくれない。何故他の同級生が取材を拒んだのかは分からなかった。 「新田とも話したりしてたよな。俺クラス一緒じゃなかったからさ。風見さんってどんな子だったの。」 「そうね。梨花ちゃんとは小学生の時からの付き合いだけど、少しおかしくなったのは、中学生の時からよ。」 そう言って松尾はストローを口元に運んでアイスティーを啜った。氷が音を立てて崩れる。 「あまり裕福とはいえなかったと思う。今でも覚えてるわ、梨花ちゃんの家に行きたいって言ったら、恥ずかしいからダメって言われたの。どこか古い平屋だったのを覚えてるわ。」 学区の端に風見一家はあったらしく、近所に住む人からゴミ出しがなっていないと評判は悪かったそうだ。遠藤は新聞記事で見た彼女の顔を頭の中に思い浮かべていた。少しだけ骨格が主張する輪郭を黒い長髪で隠している。 「でも梨花ちゃんは優しかった。私が怪我をしたらすぐに保健室まで運んでくれたこともあったわ。ただ、中学生の時。何気なくあの家の前を通った時、平屋の壁に泥が塗られていたの。梨花ちゃんは比較的おとなしい子だったから、もしかしていじめられているのかもしれないと思って聞いてみたの。あれは誰がいたずらしたの?って。そうしたら梨花ちゃんはこう言ったの。誰かにやられたわけじゃないよ、あれはお父さんが塗っているの、って。」 松尾は卓上の紙ナプキンを一枚手に取り、ショルダーバッグから黒いボールペンを抜いた。まるでコンピューターで打ったような丁寧な字が記される。 「風見貴子、風見志郎。ですか。」 「ええ。梨花ちゃんのご両親よ。貴子さんは体が弱いそうで、度々近くの病院でお会いしたことがあるわ。志郎さんはとても優しかった印象があった。確か大学で超常現象等の研究をしていたって。」 メモ帳に両親の情報を書き記していく。だんだんと松尾は声がこもっていった。 「おそらくだけど、最初におかしくなったのは志郎さんだと思うの。」 思わずペンを持つ手を止めた。父親がおかしくなった、一体どういうことだろうか。 「お父さんが塗ったって、最初は嘘だと思っていた。でも私見ちゃったの。志郎さんがバケツに詰め込んだ泥を刷毛で平屋の壁に塗っているのを。子どもの興味本位で聞いてみたの、どうして泥塗ってるのって。その時に見た志郎さんの顔を、私は一生忘れない。引き攣った顔で、笑っているようにも怒っているようにも見える、不気味な表情だったわ。私を一度だけ見た後にこう言ったの。ろうめよがいるから。って。それからだわ、梨花ちゃんがおかしくなっていったのは。」 彼女が風見梨花と距離を置くようになったのは、解剖の授業がきっかけだったという。蛙の臓器をいたずらに触っては血液を机に撒き散らしてた、そんな奇行が目立ち始め、やがて松尾は自身の両親から彼女とは距離を置くようにと言われたそうだ。 「それからか、佐々木達に目をつけられたのは。」 アイスティーを一口で半分以上啜り、木本は窓の向こうを眺めながら言った。2月14日、遠藤相談屋の事務所で亡くなった彼を思い出す。あの頃は弱い者虐めを行う卑劣な人間だった。しかし今はもう加害者でも被害者でもない、亡者なのだ。 「それではですね、新田光博のことに関しても聞きたいんですが。」 ええ、と言って松尾は座り直した。何故か表情が少し切り替わったことに遠藤は気が付いた。 「何かありましたか。」 「いえ。正直、新田くんの方が変だったと思って。」 「どういうことですか。」 「梨花ちゃんと付き合う前までは、明るい子だったのよ。」 飯野第一中学校は地元の子ども達のほとんどが通う学校らしい。各学年7クラスある中で、松尾は新田光博と2年生の時に同じクラスだったらしい。 「学級委員だったし、彼は野球部だったの。授業中も積極的に発言したり。でも梨花ちゃんと付き合うようになってからは徐々に鬱ぎ込むようになって、野球部も辞めた。」 女性と交際すると男は変わる等と言うが、その変わりようは想像もつかなかった。 「逆は聞くけどな、鬱ぎ込んでいた男が女作って明るくなるとか。」 木本の言う通りだった。松尾もそれに同意するように頷く。 「本来ならそうだと思う。でも徐々に新田くんも奇行が目立ち始めたの。授業中はいつも喉を掻いて上の空、だから私、気になっちゃって。彼に聞いてみたの。何かあった?って。でも新田くんは首を横に振るだけだった。」 益々意味が分からなかった。遠藤が記していくメモ帳にハテナマークが増えていく。 「皆新田くんは変わった、おかしくなったって距離を置き始めた。でも私には違うように見えたの。」 「と言いますと。」 「新田くんは、梨花ちゃんに付き合わされているように見えたの。私がお母さんからおつかいを頼まれてスーパーに行く途中、あの平屋に向かって歩いている2人を見たことがあった。その時はあー、やっぱり付き合っているんだって思ったくらい。手を繋いでたから。でも今思うと、梨花ちゃんが新田くんの手を引っ張っていたんじゃないかなって。」 メモ帳の中で風見梨花の存在が浮いて見える。木本は残ったアイスティーを数秒足らずで飲み干して言った。 「引き摺り込む、みたいな?」 思い詰めたような表情で松尾は頷いた。 遠藤は考えていた。永島によれば泥は霊を呼び寄せる手段、超常現象などに詳しかったのであればその方法を知っていてもおかしくはない。だとすると風見一家に問題があるように思えた。胸の奥で沸々と何かが宿る。気が付くと遠藤はそれを口走っていた。 「まだ、風見一家の平屋はあるんですか。」 3人が座るボックス席が凍りついたようだった。松尾は一度目を丸くして驚いたものの、すぐに表情を切り替えた。困ったように眉をひそめている。 「あるわよ、梨花ちゃんが東京に行ってすぐに志郎さん、貴子さんが亡くなって、それからは誰も住んでいない。ずっとあのまま。もしかして、行くの?」 遠藤はその言葉に力強く頷いた。短いため息をつく松尾よりも先に木本が声を大きくして言う。 「おいおい、今の話聞いてるとそこ幽霊屋敷と同じじゃないか。それでも行くのか。」 「はい。どうもそこに原因があるように思えるんです。それにこの呪いはどうしても祓わないといけない。もうこれ以上、幸せな家族が崩壊するのは嫌なんです。」 そう言うと、松尾は目を瞑って長く息を吐いた。長い間を空けて松尾は口を開いた。言うことも躊躇われる、そんな表情だった。 「15年前、2人が無理心中を図ったって聞いた時、少し思ったの。もしかしたら新田くんは梨花ちゃんに付き合わされてああいう結末になったんじゃないかって。そう考えるともっと新田くんに何か出来たんじゃないか、引き止めることが出来たんじゃないのかなって。すごい後悔しているの。だから、遠藤さん。私も行っていいですか。」 そう言って遠藤を見る彼女の目は真剣だった。本来であれば一緒に行くべきではないだろう。おそらく永島だったら止めているはずだ。しかし彼女は新田光博、風見梨花との繋がりが濃い。もしかしたら彼女と共に行けば何か見つかるかもしれない。 遠藤は分かりました、とだけ言った。口をつけていなかったアイスティーを一度に全て飲み干す。背筋を伸ばして覚悟を決めた。何かが見つかる可能性もありながら、何か良くないことが起きる可能性だってある。そのために事務所から除霊道具は幾つか持ってきたのだ。 風見一家に向かおうと、立ち上がろうとした時だった。 「あーあ、しょうがねぇな。この中で腕っ節があるのは俺だろう。行こうぜ。」 伝票を攫って意気揚々と立ち上がる木本の背中が無理に膨らませているように見えて、松尾は顔を見合わせて笑った。
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