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液晶画面の中で血飛沫が舞い、対戦相手が地面に倒れた。勝利の文字が浮かんでコントローラーを置く。ため息をついて椅子の背にもたれた。ギィ、と音が鳴る。気が付けば時刻は2時を過ぎていた。明日も、明後日も、その先も予定は無い。自由は不自由だな、と呟いた。新しい出会いも、初恋の女の子との再会も、色味の無い日々が続くのだ。まるで自由になれたと勘違いしたあの日からずっとコピーアンドペーストされていくように。情けないとは分かっていても動けなかった。 あと10試合は出来るだろうか。紙パックに挿したストローを噛んでオレンジジュースを啜る。奥の方でゴゴッ、と音がして紙パックを後ろに放り投げる。コントローラーを持って対戦ボタンを押そうとした。 待機中のアバターがしきりに構えては挑発するポージングをしている。壮大なBGMに紛れるかのように誰かの声がして、コントローラーを置いた。 「み…しあ…なし…う…きがお…なが…」 微かなその声は、まるで歌声のようだった。BGMのせいで薄く聞こえる。頭の中に当該する人物は浮かんだものの、この時間と状態ではありえなかった。 恐る恐るイヤホンを外す。微かな歌声は聞こえず、ぴったりと静寂が張り詰めている。気のせいだったのだろう。もしかしたらゲーム内の音声かもしれない。もうすぐで運営から大型のアップデートが入ると掲示板で見かけた。実装される新たなキャラクターの声という可能性もあった。だとしたら今夜はまだ眠れないだろう。イヤホンをはめて再び液晶画面に戻る。コントローラーを握って再び気が付いた。 「み…しあ…なし…う…きがお…なが…」 気のせいではない。イヤホンを外してははめてを繰り返すも、何故かイヤホンを外すと聞こえなくなる。徐々に鼓動が早くなってグレーのスウェットに汗が滲みるのが分かった。説明できない歌声。その声の出所を確かめたくなって、ゆっくりと立ち上がった。ギィ、と音が鳴る。 煉瓦色の扉を開けて廊下に出る。ポケットにしまった携帯を抜いてライトを点け、足元を照らした。自分の息遣いと鼓動だけが静けさに沈んでいく。 たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ 思わず口元を塞いで短い悲鳴をあげた。誰かの足音は1階から聞こえる。小走りに近いその音はおそらくリビングを抜けていった。そんなような感じがした。 自分の悪い癖だった。もしここで1階に降りて心霊現象に遭えば、掲示板にスレッドを建てて人を集めることができるかもしれない。卑屈な好奇心が徐々に恐怖心より増幅していく。携帯のライトで先を照らしながら、恐る恐る階段を降りた。 ギィ、ギィ、ギィ、と板がしなる音がする。手すりを撫でてカーブする階段を降る。ドクッ、ドクッ、と派手な音を立てて心臓が動く。生唾を飲んだ。その音が誰かに聞かれてはいけない、そう直感したのは何故だろう。 1階に降りて廊下の奥を見た。白いタイルの床、鏡のような壁。その先には誰もいない。何故か安心はできなかった。野良猫でもいれば勝手に入ってきたと解決できるものの、誰もいないのであればさっきの足音は何だったのか。少し伸びた髪を指先で分けて目を細める。洗面台の鏡には自分の姿だけがあった。 来た道を戻ろうと振り返った。階段に足を置いて一段一段上がっていく。これがゲームのやりすぎだというのなら甘んじて受け入れよう。そう思っていた。もう今夜はゲームをやめて寝るとしよう。何度も自分に言い聞かせる。ギィ、と音が鳴る。階段の途中で携帯のライトを前に照らした。 目の前に10本の足があった。 視線を動かすことはできなかった。まるで吸い寄せられるかのように、目の前に並ぶ足を見る。どれも蒼白くて男女の区別は分からなかった。2階への進路を塞ぐ5人は自分を見下ろしているのだろうか。それとも天井を見上げているのか。答えこそ一向に出てこないが、すぐに行き先を変更することにした。頭の中で地図が浮かぶ。ここから近くのコンビニまでは徒歩2分ほど。確かイートインがあったはずだ。携帯で商品を購入することができるのだから現代は便利である。計り知れない恐怖心を誤魔化すように、文明の利器に感謝しながら再び階段を降りた。
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