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一度しか訪れた事のない場所だが、嫌に懐かしく感じた。苔に覆われた楕円形の穴。背の高い草木に囲まれてはいるものの、確かに15年前、遠藤と訪れた洞穴だった。足を踏み入れてすらいないが、鼓動が徐々に高鳴っていく。永島は震える自分の足に拳を打って、気を引き締めようとしていた。
どうやら雄大がこの場所にいる女の霊を祓った、というのは虚偽の噂らしい。雄大曰くここの霊は封じただけだという。つまりまだ怨念は残っているということだ。
永島神社から数枚の呪符は持ってきていた。手首にかかる数珠を摩って唾をごくりと飲み込む。永島はゆっくりと洞穴の闇に足を進めた。
呼吸が荒くなっていく。足音だけが石の壁に反射していた。
やがて陽の光が届かなくなり、永島は慌てて携帯を抜いた。ライトを灯して先を照らす。その時だった。
ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ
奥からこちらへ、何かが這っている。15年前と同じだった。あの時も這う音がして何気なくその方へ歩いた。そして髪の長い女の霊がいて、包丁を持っていて、振り翳して…。
ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ
血に濡れた肉を引き摺る音がした。きっと腹が裂けているのだろう。こめかみに痛みが走った。古傷が痙攣している。ここから音を立てて出血してしまうのではないか。永島は一気に不安に襲われた。
「ダメだ。」
思わず永島はそう呟いた。持参したカッターナイフをチノパンのポケットから抜いて、カチカチと刃を滑らせた。先をこめかみの古傷に宛てがう。長い深呼吸を何度か繰り返し、勢いよく古傷を切った。
血は出なかった。
携帯のライトの先、血塗れの女性が俯せのまま倒れている。髪は濡れて海藻のようだった。恐る恐るあげた顔は蒼白かったが、それ以上に悲しそうな表情だった。細い枝のような腕をこちらに伸ばして、何かを掴もうとしている。
15年前は気が付くことすらできなかった。永島の足元には血に濡れた肉の塊があった。それがこの女性の胎内にいた赤ん坊であることは、感覚で分かった。
「けが、らわしい…けがらわしい…けがれ…」
掠れた声で女の霊は言う。永島はカッターナイフと携帯をポケットにしまった。ゆっくりとしゃがみこんで肉の塊、赤ん坊になれなかったものを抱きかかえた。襟のない白いワイシャツがトマトジュースをこぼしたように赤く染まる。しかし気に留めることもなく、永島は赤ん坊を抱えて女の前に立った。
「けがらわ、しい…け、がら、わしい…」
「そんなことない。あんたも、あんたの子どもも、綺麗だから。だから、すまなかった。いたずらに手を出して怒らせてしまって。」
何も答えることのない霊に、永島は語りかける。
「どうか、安らかに眠ってくれ。もう百何年も、苦しむ必要はないんだ。あんたはもう許されたんだ。」
枯れたような女の手、その上に赤ん坊を添えてやった。手首の数珠をずらして手を合わせる。今までこんなにも力を込めて祈ったことはなかった。それは自分のためではなく、この女の霊のためだった。自分のトラウマを祓いたいわけじゃない。この女性が成仏できるように、安らかに眠れるように。
恐る恐る目を開けた。もう目の前に這い蹲る女の霊はいなかった。血に塗れた赤ん坊も、そこにはいない。
肩から何かが抜けていった感覚があった。
ワイシャツに付着した血を撫でる。そのまま左のこめかみに触れた。痛みはおろか古傷すら無い。洞穴に差し込む光に照らされて永島は胸をなでおろした。
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