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準備は整った。
公衆トイレの前、大きな祭壇の上には木製の椅子があり、呪符の貼られた白いワンピースを着た由紀子が手足を縛られた状態で目を瞑っている。その周りを真四角の木の板が囲っていた。等間隔に座った霊媒師たちは紫色の座布団の上で笏を手に、目の前の木の箱に向けて上体を傾けている。白い皿、日本酒が注がれていた。
雄大は由紀子の真正面に座り、その前に鉄の箱と結婚指輪を置いていた。
永島は大幣を持って雄大の後ろに立っていた。その他大勢の霊媒師は永島を挟んで真四角の木の板を取り囲んでいる。あまりに壮大な光景だった。
「後は見守るしかない、ということでしょうか。」
坂の真ん中で秀夫は言う。遠藤はマルボロを抜いて火をつけた。紫煙を燻らせて答える。
「そうだな。もし何かあったら雄大さんがきちんと言ってくれる。」
そう言うと秀夫も慶も納得したのか、長く息を吐いて目の前の光景に集中し始めた。どうやら美智花はただならぬ雰囲気を察知したのか、秀夫と手を繋いで黙り込んでいる。
「それでは、始めます。」
雄大の声が木々の中に轟く。誰も答えぬまま、60人の呪文詠唱が始まった。
それは葛城家で永島が唱えていたものと同じ内容に聞こえた。しかし声の厚みも、迫力も全てが桁違いである。大幣を振るう音も重なって、60人の声が辺りにこだましていた。
「パパ、あれ、なーに。怖いよ。」
美智花が指差す先、公衆トイレの奥に伸びる草木に人の姿があった。目を細めてそれが何かを知った時、遠藤は息を飲んだ。
老婆が草木の間で揺れていた。所々穴が空き、破かれたような着物を身に包んで、除霊の儀式を睨みつけながら左右に揺れている。まさかと思って遠藤は辺りを見渡した。
まるで湧いて出てきたかのように大勢の老爺、老婆が霊媒師たちを取り囲んでいる。その時に遠藤たちはあの言葉を聞いた。
「ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…」
60人の詠唱を掻き消すかのように、”棄てられた老人たち”が話している。
「こ、これ、大丈夫、なんですか。」
不安そうに呟く慶だったが、遠藤は落ち着いていた。
「雄大さんはこの辺りに結界を張っている。”ろうめよ”は入ってこれないから大丈夫だ。」
彼らを安心させるためにそう言ったが、それは次の異変に消されてしまった。
それまで眠ったままの由紀子が突如顔を上げたかと思うと、白目を剥いて首を捻らせた。映像が乱れているかのように首を回し、ぐるりと回しては空を見上げる。やがて彼女は、泥を吐き始めた。
「たすけろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろいやろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろもうやめろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ」
鼻と口からどす黒い泥を垂れ流していく。やがてその泥は明るい木目調の祭壇に落ちて広がっていった。縁を伝って草木に垂れる。その異変は徐々に拡大した。
地面から泥の塊が噴出し、這うように蠢く。
ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ
登っていた。泥は祭壇の支柱を這って、まるで儀式に侵入しているようだった。
「うっ、おえええええええええええええええ」
泥の行く先で1人の霊媒師が突然泥を吐いた。目の前の木箱、白い皿に入った日本酒が黒く染まっていく。やがてその霊媒師は俯せになって倒れ込むと、そのまま動かなくなってしまった。
「え、遠藤さん、あれ、もしかして…。」
慶の怯えた声に、遠藤はただ頷くことしかできなかった。除霊が始まって5分程度にも関わらず、霊媒師が1人死んだのだ。
それから異変は伝染していった。
喉を押さえて出血する霊媒師、何故か指が落ちて出血する霊媒師、徐々にその異変は広がっていく。
しかし他の霊媒師たちは何事もなかったかのように除霊を続けていた。むしろ先程よりも声が大きくなったように思える。遠藤はただ願うばかりだった。どうかこれ以上被害が拡大しないように、誰も亡くならないように。両手を合わせて目を瞑った。ただ何気なく祈っただけだった。
その瞬間、遠藤の意識は途切れた。
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