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海中から這い上がったかのように目を覚ます。辺りを見渡すと、葛城家の3人も、60人の霊媒師たちも、誰もいなかった。 「何だ、これ。」 思わずそう口にして、さらにおかしなことに気が付く。言葉を話しているにも関わらず声が出ていないのだ。 視線の先に聳える公衆トイレはどこか新しく見える。背の低い草木が真っ直ぐ伸びていた。遠藤は深く息を吸って考えた。これは”ろうめよ”が見せている幻覚なのだろう。 何かここから抜け出すヒントはないかと探ろうとした時、遠くの方から車の走行音が聞こえた。その音は下の方からこちらに向かってきている。 緩い坂の向こうに目をやると、1台の車がやってきた。鈍色の軽自動車は遠藤の前で停車する。その車から降りてきた男女を見て、言葉を失った。 「ねぇ。本当にここでするの。」 運転席から降りてきた新田光博はどこか不安そうに言った。細い輪郭に黒の短髪。助手席からは風見梨花が降りて、どこか鬱陶しそうに答えた。 「だってみっくん、儀式出来ないんでしょう?」 どこか嫌味を含めているように聞こえた。それは新田も感じ取ったのだろう、一瞬で弱々しい声になった。 「そりゃ子どもは欲しいよ。でも、小指を切り落とすのは嫌だよ。梨花だって嫌だろう?」 そう言いながら新田はボリボリと喉を掻き毟った。風見は黒い髪を振って答える。 「でも他に方法はないの。”ろうめよ”様じゃないと私たちの病気は治らないの!分かってよ!」 突然そう叫ぶと、風見は爪を噛み始めた。今の言葉で表すならヒステリーというものだろう。新田は小さくため息をついて言った。 「梨花、病院に行こうよ。まだ大丈夫だから。」 「うるさい!どうして私たちの未来のために小指を切れないの。約束したじゃん、誰にもいじめられない強い子を育てようって。私のお父さんが言ってたのよ、一族とは、約束の御身現なり。信ぜば、”ろうめよ”は来。って。みっくんは私との約束を破るの?」 あまりに鋭い目つきだった。新田は何も返すことができないのか、すぐに黙り込んでしまった。喉をボリボリと掻き毟りながら。 「あそこですれば、”ろうめよ”様が直接恩恵を授けてくださるかもしれないのよ。私たちが家族を作りたいと証明するために、あそこでしなきゃいけないの。分かる?」 あまりに都合のいい解釈だった。風見梨花はそれ以外の方法を考えようともしないのだろう。盲信という言葉が当て嵌まっていた。 「絶対中に出してよ。顔にもかけちゃダメだから。いい?」 「分かったよ…そこまで言うならやるよ…。」 詳細を知らなければ、ただの痴話喧嘩にしか聞こえないだろう。しかし遠藤は今から起きる出来事を分かっていた。この後2人は公衆トイレの中で性行為をし、無理心中を図るのだ。 だからこそ、後を追うのはやめた。 風見が先頭に立って公衆トイレに進んで行く。2人は男子トイレに入ると、喧しい音を立てて個室に入った。3つ並ぶ個室、その奥で今頃2人は”ろうめよ”に見せつける淫らな行為を行っているということだ。 少し経つと、どこからともなく喘ぎ声が聞こえた。 遠藤はぼんやりと考えていた。テレビ等で紹介される暗いトンネルや不気味な雰囲気の坂道、いかにも心霊スポットというように取り上げられているが、霊力の強い場所はそこら中に転がっているということである。近所の公園、コンビニ、そして自分の部屋。どこが心霊現象のトリガーになるのかは霊媒師や神主にも分からないのだ。 ふと公衆トイレに目をやった。木造の小さな箱から風見梨花の切ない声が聞こえている。しかしその外壁に妙な動きがあった。大きな蛭のような黒い何かが壁を這って男子トイレの中に滑り込んで行く。それが泥だと気が付いた時、草木を掻き分けて老人たちがトイレに向かって歩いているのが見えた。 足が動かなかった。まるで足の裏に強力な接着剤が付着しているようで、どうも前に進むことができない。その間遠藤は思った。ここで性行為を行うということは、”ろうめよ”の恩恵を授かるのではなく、”ろうめよ”の怒りに触れることになるのではないか。それもそのはずだった。2人は”ろうめよ”から恩恵を授かるために日翠山を訪れたというのに、何故無理心中をする必要があるのだろうか。 新田夫婦も被害者なのだ。 そう思った時、あれだけ固く動くことのなかった足が突然解放された。前のめりになりながら遠藤は公衆トイレに駆け出した。既に老人たちは公衆トイレの壁に吸い込まれている。手遅れかもしれなかったが、それでも行かざるを得なかった。 「新田、風見!」 声は届かないと分かっていた。それでも遠藤は叫んでいた。男子トイレの一番奥の個室、閉ざされた扉を必死になって叩きつける。返事はなく喘ぎ声だけが濃く耳にへばりつく。 遠藤は隣の個室に入った。トイレットペーパーのホルダーに足をかけ、体重を乗せて仕切りの縁に手をかける。勢いよく身を乗り出して個室の中を覗き込んだ。 その瞬間、蒼白い手の群れが遠藤を襲った。まるで高波のように迫っては遠藤の顔を掴んで中に引き摺り込もうとしている。個室の中を隙間なく埋め尽くす老人たちは口々に囁いた。 「ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…」 「黙れ!」 音になることのない言葉を乱暴に放った。 「おい新田!お前、いつまでも自分の意見を主張しないままでいいのか。夫婦は互いの意見をぶつけ合いながら成長していくんじゃないのか。ずっと黙り込んだままじゃ何も分からないだろう!」 家族を作ったことのない自分が言えることなのかどうかは分からなかった。それでもありふれた理想論をぶつけないと、2人は永遠に”ろうめよ”に囚われ続けることになるのではないか、そんな危機感から遠藤は叫び続けた。 「風見、お前もだぞ!こんな悪霊に頼らなくたっていいじゃないか。いくら病院に通い詰めてもダメなら他の幸せを見つけたっていいだろ、子どもを産むことだけが夫婦の幸せなのか、違うだろ!もうお前たちは誰かにいじめられることもない、2人だけでやっていきたいから東京に来たんじゃないのか!」 皺だらけの手が顔を撫でていく。誰かの指が口の中に入り込んで、言葉に詰まった。しかし遠藤は首を振って払い除けた。 「約束なんて、”ろうめよ”なんて、糞食らえだ!早く成仏して幸せになれよ!」 そう叫んだ瞬間、”ろうめよ”の手が遠藤の首を鷲掴みにした。喉仏が圧迫されて言葉の続きが出せない。振り解こうとした時、”ろうめよ”の手が視界を遮った。目の前が蒼白く塞がれる。もうダメかもしれない、そう不安を抱いた時だった。 「ありがとう。」 それは確かに聞こえた。新田光博、風見梨花、2人の感謝の言葉。自分の言葉が2人に届いたのだ。どこか安心してホッと胸を撫で下ろした。 その瞬間、遠藤の意識は途切れた。
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