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白金高輪のの住宅街をパブリカが駆けていく。時折スピードを緩めながら、遠藤はハンドルを切った。助手席に座る永島は葛城一家からの案件書類に目を通している。ここに依頼の件で訪れるのは、今日で最後だろう。
白い2階建の家の前に車を停める。外に出ると既に春の陽気が辺りを包んでいた。待雪草の季節は終わって、何かが始まる期待に満ちた時期になっていた。
インターホンを押すと、慶の声が返ってきた。
「え、遠藤さん、永島さん。今鍵、開けます。」
ぶつんと声が途切れ、2人は黒い門をくぐった。やがて玄関が開かれる。出迎えてくれた慶を見て2人は驚いていた。
「お前、随分バッサリといったな。」
「そ、そうですね。は、初めて、美容院に、行きました。」
あれだけ視界を遮っていた長い髪をほとんど切り落とし、眉の上にかかる前髪を触りながら言う。
「この辺りの美容院か?だいぶ勇気いるだろ。」
「勇気も、お、お金も要りましたね。」
そう言って3人は笑った。慶の詰まらせる喋り方も、いつか治るのだろう。玄関に上がろうとした時、リビングの向こうから秀夫の怒鳴り声が聞こえた。
「おい、由紀子!どうなっているんだ!」
遠藤は思わずため息をついてしまった。あれだけのことがあったにも関わらず、まだ秀夫は会社での権力を振り翳しているのか。そんな遠藤たちの表情を見て察知したのか、慶は取り繕うように言った。
「ち、違うんです。実はちょっと。」
そう言って2人を家に上げる。リビングの扉を開き、慶はアイランドキッチンの方を指差した。
薄いピンクのエプロンを身に纏い、秀夫はフライパンの柄を持っていた。どこか慌てた様子で足踏みをしている。
「由紀子、どうなっているんだ!全然丸くならないぞ!」
「違うわよあなた。生地は真ん中に落とさないと。」
由紀子は上下スウェットのまま秀夫の隣に立っていた。少しだけ顔に丸みが帯びているような気がする。あれだけ痩せこけていたのだから、もう霊が憑いていないのは火を見るよりも明らかだった。しかし永島はすぐに疑問をぶつけた。
「あれ、何やってんの。」
「か、母さんの体調が、まだ本調子じゃないからって、父さんが家事全般を、やるって、言い始めたはいいんですけど。どうも、うまくいかないのか…バタバタしてて。」
「慶。あれは何を焼いてるの。」
「パ、パンケーキです。母さんの、好物なんです。」
秀夫は大袈裟な手付きでフライパンを手前に引き寄せた。楕円形の生地が宙を舞ってフライパンに落ち、ひしゃげた。
「おい由紀子!ひっくり返すコツはあるのか!」
「パパー、パンケーキまだー?」
子どもの成長は著しかった。わずか1ヶ月で少し大きくなったように見える。エプロンの袖を掴まれ、秀夫は慌てた様子で言った。
「待ってなさい、今父さんがいいパンケーキを焼いてるからな。」
「似合わねぇな、パンケーキっていう言葉が。」
フライパンを相手に格闘していると、秀夫はふとこちらを振り返った。どうやら今気が付いたのだろう。驚いた様子で言った。
「おお、来てたのか。今パンケーキを焼いてるんだが。どうだ。」
「何がどうだ、なんですか。焦げてるじゃないですか。」
再びフライパンに視線を落とし、秀夫の慌てふためく声が響いた。それを見て、4人は笑った。
「すいませんね、わざわざ来てもらって。」
由紀子はおっとりとした喋り方で言った。もうリビングに暖房はついていない。
「ほら、慶ちゃん。お2人に言うことがあるでしょう。」
「わ、分かってるよ。子どもじゃないんだから。」
そう言うと慶は2人の前に立った。どこか改まった様子だった。一度深く呼吸をして口を開く。
「今度、高認を、受けるんです。」
あまり聞き慣れない単語だった。遠藤はそのまま聞き返す。
「高認?」
「確か、高等学校卒業程度認定試験。だったよな。」
永島の言葉に慶は頷いた。
「いじめが原因で、高校を辞めちゃいましたけど、このままじゃいけないなって、思うようになって。ちゃんと一人前の大人に、なります。」
彼の目は澄んでいた。言葉こそ今は詰まっているものの、視線はどこにも泳ぐことなくしっかりとしている。
「そうか。良かったな。もし就職先に困るようだったら、うちの事務所でバイトしてもいいからな。」
「おい由紀子!もうシロップはかけていいのか!」
いい会話の流れが秀夫の声にかき消されて、その場にいる4人が声を上げて笑った。霊が消えた葛城一家はそれぞれが良い方向へと成長している。2人にはそれが何よりも嬉しかった。
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