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「それにしてもブルジョワジーだな。」 ハンドルを切りながら遠藤は呟いた。鼻から煙を抜いて十字路の前でブレーキをかける。目の前にランドセルを背負った小学生たちが駆け抜けていった。 「次の角右な。」 路地に滑り込んで大きな白い箱の前に停車する。車から降りて葛城家を見上げる遠藤は思わず言葉を漏らしていた。 「すっげぇな。豪邸じゃん。」 ブザーを鳴らし、インターホンの向こうから気品の良い女性の声が返ってきた。柵はギィ、とは鳴らなかった。 簡単な挨拶を済ませてリビングに上がる。白い革のソファーは意外にも座り心地が良かった。 「遠藤さん、永島さん。昨晩も妙な音がしたんです。」 由紀子は不安そうな表情で言った。黒いカシミヤのコートの袖にはファーが付いている。細い指先は微かに震えていた。じんわりと滲む額の汗を拭って遠藤は言う。 「ラップ現象ですか。」 「ええ…それに、足音も。」 ぺきっ、ぺきっ 彼女の言葉に応えるかのように、どこかで木の枝を踏み締めるような音がした。由紀子の表情はどんどん追い詰められていく。永島はソファーに背を預けて呟いた。 「まぁ、そりゃ鳴るよな。」 出された紅茶を啜り、遠藤は辺りを見渡した。やたらと陽の光を反射する家具や置物が並んでいる。中には家族写真のようなものもあったが、この距離からだとよく見えなかった。 たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ 2階からだった。確かに天井の向こうから小さな足音が聞こえる。幼子が走っている。そんな印象を受けた。 「今2階には誰もいませんよね。」 「え?ええ。いません。」 永島の問いかけに由紀子は辿々しく応える。その反応が少しだけ気になった遠藤が何か言いかけたところで、玄関の開く音がした。咄嗟に身構える由紀子に永島は言う。 「旦那さんですね。」 言葉尻を待たずしてリビングの扉が開かれる。眼鏡をかけた男性がネクタイを緩ませながら、こちらに怪訝な視線を向けている。短い黒髪はジェルで固められていた。 「誰だね、君たちは。」 2人は立ち上がって男性に頭を下げた。レザージャケットの内側から名刺を抜いて彼の元に向かう。 「遠藤相談屋の遠藤泰介です。こっちは同僚の永島友哉です。」 名刺を受け取ってもなお秀夫は眉をひそめていた。遠藤の肩越しに由紀子へ声をかける。その声には怒りが滲んでいるようだった。 「何なんだこいつらは。おい由紀子、説明しろ。」 「あなた違うの。ほら、ここ最近ラップ現象があったりするじゃない?だから専門の人に来ていただいたのよ。」 由紀子が説明したはいいものの、秀夫はため息をついて遠藤と永島を睨みつけた。 「こんな胡散臭い連中に金を払ったのか。」 棘のある言葉を均すかのように永島が言った。 「まだ代金は戴いておりません。」 「そういうことじゃないんだよ。由紀子、証券会社を辞めて育児に専念するとかいうお前のわがままを聞いてやったことを、俺は今後悔しているよ。俺はこんな連中に金を払うために企業の社長をやっているんじゃない。」 案件書類には食品会社の社長と書かれていたはずだ。慶城フーズは海外にもその勢力を拡大している。秀夫は額に手を当てて続けた。 「それと、いい加減暖房切れよ。暑いったらありゃしない。」 乱暴に鞄をテーブルの上に放り投げ、ジャケットを脱いで秀夫はリビングを抜けていこうとする。後を追うように永島は彼の前に立ってポケットから携帯を抜いた。 「何だね。」 「この場所、見覚えはないですか。」 画面に写っていたのは日翠山の公衆トイレだった。面倒臭そうな表情を浮かべたまま秀夫は言う。 「知るか。いいから早く出て行け。」 追い出すかのように手で払う。いつの間にかラップ音も足音も聞こえていなかった。永島と顔を見合わせて頷き、2人は葛城家を後にする事となった。 「ごめんなさいね、来ていただいたばかりなのに。」 玄関まで見送りに来た由紀子は時折体を震わせながら言った。 「いいえ。由紀子さん、これ。」 永島はジャケットの内ポケットから茶封筒を抜いた。由紀子に握らせてから小さな声で続ける。 「呪符です。これを自宅の東西南北、なるべく美智花ちゃんの手が届かないところに貼り付けてください。」 不思議そうな表情でそれを受け取ると、由紀子は中を確認して目を丸くした。呪符などそうお目にかかるものではない。 「もし何かありましたらすぐにご連絡ください。」 遠藤がそう言って、由紀子は深々と頭を下げた。すみません、すみませんと呟きながら、手を震わせながら。謝り慣れている。そんな印象だった。
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