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案内されたのはいわゆる試着室だった。
「少々お待ちください」
言われるままに立ち止まる勇作。楠井は試着室の入り口にかかっているカーテンをシャープな動きで引き開けた。
正面には大きな鏡。楠井越しの勇作が映っている。室内はある程度の広さがあり、腰かけるためのスツールも置かれていた。楠井は試着室の壁をドン、と一つ叩いた。するとその一部に切れ込みが入り、ぱたりと内側に倒れて即席のテーブルになったではないか。目を丸くする勇作に構わず即席テーブルの前にスツールを寄せ、一人用の座席を完成させる。
「こちらへどうぞ」
促されるままに靴を脱いで中へ入った勇作はスツールに腰を下ろす。
「それではお持ちします」
そう言って楠井が立ち去って数分後。
再び戻ってきた楠井は、ガラス製の器を乗せたトレイを運んできた。そのトレイをテーブルの上に置く。割り箸もちゃんとトレイの上にあった。
「こ……これって……」
「ボンジョルノ特製冷やし中華でございます」
黄色味の強い麺はともかくとして、それ以外は勇作の中にある冷やし中華の概念にはあまり沿っていなかった。
「麺はデュラムセモリナを百パーセント。トッピングのモッツァレラチーズ、ズッキーニ、サラミはもちろん、タレに使用しておりますトマトとバルサミコ酢、仕上げのオリーブオイルに至るまで、全て原材料はイタリアより取り寄せた本場の味です。彩として添えさせていただきましたバジルの葉は、契約農家より仕入れております無農薬栽培のバジルとなっておりますので、是非お召し上がりくださいませ。食後には冷やしエスプレッソもございます」
流れるように説明を終えた楠井は、最後にまた一礼して試着室を出て行った。
後に残された勇作は、改めて自分の置かれた状況のおかしさを確かめていた。
真横には試着用の大きな鏡。背後にはハンガーを引っかけるフック。足元は柔らかめの絨毯が敷かれていて踏み心地は悪くなかった。店内で気に入った服を見つけ、ここで自分に合わせてみるのだろう。勇作は真横にある鏡に目を向けた。そこには間抜けな顔をした男が映っていた。この男は一着の服も持ち込んでいない。その代わり、彼の目の前には自称冷やし中華が置かれている。
「冷製パスタだよなぁ……」
勇作はしみじみと身も蓋も無いことを言った。
彼の見る限りで、中華的要素は黄色味の強いちぢれ面だけだ。
百歩譲って寄せるなら、冷やしイタリアンなんてどうだろう。
そう思いながら一口啜り、そして改めて呟いた。
「うん、冷製パスタだ」
一点の曇りもなく、彼の口の中にはイタリアの風味が広がった。本場の味、と胸を張って言うのも納得だった。これを冷やし中華と名乗る度胸は褒めるべきなのだろうか。
これで不味ければむしろすっきりしただろう。変に美味いから勇作は困っていた。胸に渦巻くモヤモヤ感。
「冷製パスタ、始めました」
自分の口から出た言葉に、勇作は首を傾げた。あまりにしっくりこなかった。
「冷やし中華、始めました」
勇作はその自称冷やし中華を食べながら細やかな感動すら覚えていた。言葉のバランスなのか、あるいは日常に染み込み過ぎているのか。あまりの治まりの良さには脱帽の思いすらあった。
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