男、過日の求縁

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 あなたと出会ったのは、春真っ只中の草木、花が美しく咲き乱れている頃だった。桜が咲いて、美しい頃。天気も良く、私は初めての任務に身が引き締まっていた。私はとある人の命で、大きな屋敷を調査することになった。この初めて任された仕事を、私はどうしても成功させたかった。若い頃の私は今の私とは違って、義理高く規則をしっかりと守る堅物で通っていた。今思うと、それはかなり恥ずかしいことなのだけど。  仕事での決まり事は、三つ。気づかれぬように行動すること。任務の他言は無用のこと。死ぬときは猫のように、気づかれることなく死ぬこと。私はそれを必ず貫いた上で、この任務を成功させる。そして出世するのだと、躍起になっていた。  私は調査をするにあたって、まず人気のない屋敷の庭に忍び込んだ。密偵故に、堂々と家の前から入るわけにもいかない。この庭が、屋敷の当主の寝室であるということを事前の調べでつけていた私は、そこに忍び込めば何とか調査もできようと考えていた。  庭の、大きな桜の木の後ろに身を隠した。鳥がさえずり、鹿威しがカン、と首を垂れて水を落とす音だけが、辺りに響いていた。  その庭は広く、見事だった。人生で、まじまじと庭を見たのは初めてで、何と浮世離れしているものかと白々しく一望していた。大きな池を囲うように四季を彩る木々や花。それを望むことができるように、屋敷の一角が顔を見せていた。その時は桜が見事に咲き誇っていて、また牡丹や石楠花も咲いていてまさに春の美しい花々が飾られた贅沢な庭だ。まるで夢のような場所だと、私は思った。 「……まぁ、今日は桜が美しいわ」  そこに、あなたはいた。あなたの口から放たれた言葉は、穏やかでどこかしっとりとしていて品があった。全体的に、美しい。顔も非常に整っていて、また落ち着いた色の着物が良く似合っていた。一瞬で目を奪われた。 田舎で育った私は、今日そこで初めて江戸の美女に会った。あなたは、縁側の方に出てきてゆっくりと腰を下ろした。私の隠れていた、桜を眺めていた。はらはらと散る桜の花びらが池の水面に落ちて、揺れた。春の風は穏やかで、暖かかった。  あなたは、ずっと桜とこの庭の花々を眺めていた。そのため私も一歩も動けぬまま、早くどこかに行ってくれないだろうか、とぼんやり思っていた。ここまで来ると我慢比べのような感じになって、こちらも何故だか躍起になってしまう。太陽が高く天の上に来る頃、あなたは縁側で昼寝を始めたようで、目を閉じて規則的に息を吸っては吐いて、手を床に置きそこに顔を置いて眠っていた。  あなたのその様子を見た私は、屋敷を見つからないように散策した。報告を受けていた間取りとは明らかに異なっていたことが証明され、またあの庭の区画は完全に別邸となっていることが分かった。ぐるっと回って部屋の位置や、普段当主のよく使う部屋などを良く確かめた。  その日はそのまま帰ろうと、来た場所へと戻ろうと思っていたところに、眠りから覚めたあなたが、庭先のかすかな私の足音に気付いて私に話しかけてきた。 「誰? ……誰かいるのですか? 」  その言葉に、私は返事をすることなんてない。けれど、あなたは話しかけるのをやめなかった。 「気のせい、だったのかしら。でも、誰か、いてくれたらいいのだけれど」  あなたが寂しそうにそう言ったのを、私は黙って聞いていた。察するに、あなたはこの家の離れであるこの場所で、囚われて一人でほとんど過ごしているのだと思った。実際、その通りだったようで、使いの者が度々やってきて軽い食事や甘味を運んできたり、寝床の準備をしたりとするだけで、他に誰かが来ることはなさそうだった。 「……獣でも幽霊でも何でもいいから、私の相手をしてくれないかしら。退屈だわ」  あなたはうつむきながら言った。だが、私は仕事だからと決まり事を堅く守って、あなたに話しかけることはしなかった。それでも、あなたはずっと私を人なのか獣なのか知らずとも、構わず語り続けた。 「ここへ来てから、壊れ物みたいに扱われて、こんな立派な庭まである部屋を用意してもらっても、私はちっとも嬉しくないのに……」  あなたは従者が持ってきた高そうな茶菓子には口をつけないまま、ただ茶の入った湯呑みを手に抱え込んだまま、庭をずっと眺めていた。
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