男、過日の求縁

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 あなたは私の顔を見てから、よく喜怒哀楽を私に見せてくれるようになった。それに、敬語はやめてくれと言って、話し方も二人馴れ親しいような話し方に変わった。お茶や茶菓子も、振る舞ってくれるようになった。家の使いの者には何と言っているのかは分からないが、毎回家に訪れるとお茶と茶菓子が二人分、必ず用意されているのだ。 「ねえ、忍者さんは名前、ないの?」 「……ないわけでは」 「教えて?」 「……東」 「東っていうの? 素敵ね」  あなたは私の名前を美しいと言ってくれた。東は、単純で分かりやすいから美しさも何も求めていない淡々としたものだとだけ考えていたけれど、あなたはそれでも「美しい」と言った。普段全く動かない頬の筋肉がわずかに緩んだ気がした。 「本名ではありませんが、それは伝えておきます。……それで、あなたは?」 「え?」 「あなたの名前」  すると、あなたは静かに答えた。 「ないわ。……私には名前がないの」 「何故?」 「外の世界に来てから、名前はもらってない。誰からも」  その言葉から、私はあなたが元々江戸の町や武家の出身ではなく、どこか別の――色を売る街から来たのではないかということを察した。 「じゃあ、昔の……小さい時の名前は?」 「忘れた」 「源氏名は?」 「源氏名って……東は私がそういう人間だって分かったの?」 「いいや、勘」 「そうなんだ、随分と勘が鋭いのね」  すると、あなたはうつむいた。実はとある調べでここの家の当主が大金を叩いて遊女を買ったことを突き止めていたから、知っていただけなのだ。きっと、あなたは色街を出た自分のことを私がどう思っていたかを気にしていたのでしょう。でも、私は気にしていなかった。 「……恥ずかしいわ。源氏物語から取った名前なの」 「良いでしょ、私はあなたに名を伝えた」  するとあなたがもじもじしながら、教えてくれた。 「き、桐壺」  桐壺。  素敵な名前だと思った。 「綺麗だ」  私はあなたに言うと、あなたは頬を赤く染めた。 「そ、そんな……」 「桐壺は桐壺帝からの寵愛を一身に受けたその人の名前。……あなたみたいに綺麗な人には、ぴったりなんじゃないのかな」 「ふふ、東は良く知ってるのね」 「私でも知ってたさ」  あなたは嬉しそうに華やかに笑った。 「けれど、こっちの世界に来たらそんな名前では生きられないでしょう? 名前、つけてくれないかしら」 「ええ、私がですか?」 「うん、東につけて欲しい」  困った私は辺りを見渡して、楓の木があることに気がついた。 「かえで、とか?」  するとあなたは笑った。 「それ、私の弟の名前と同じだわ」  けれどあなたは、楓という名前を気に入って「楓と呼んで」と私に言った。 「楓さん」 「なぁに、東」 「……呼んだだけです」 「ふふ、何だ」  けれど、あなたは私に熱い視線をずっと注いで、目を離さなかった。
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