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久蔵の事
妻が死んだ。
久蔵は医者から妻の死を告げられた時、叙事的にそう思った。
かれこれ五十年以上も一緒にいたのだから人並みに涙は出もしたが、それでも覚悟ができていた分、例えば交通事故のように突然に別れてしまうよりもずっとマシなのだろうと自分の心を俯瞰で見ていた。
妻の死因はガンであった。
一年前に病気が分かった時にはすでに手遅れの状態であった。息子、娘らは知らせを聞いて青ざめていたが、久蔵ら夫婦は案外すんなりと事実を受け入れた。いや、妻のけいが別段怯えることもなく、「はあ、そうですか」と言ったから、久蔵は取り乱すきっかけを掴めなかったのかもしれない。
久蔵に言わせれば、けいはいつもそうだった。
地頭は賢いのに素っ頓狂というか、ずれているというかお世辞にも普通の変わり映えしない人間とは言えなかった。けいの言動に何度焦り、何度苛立ち、そして何度笑ったかなど到底数えることはできない。
久蔵は、こんな自分と結婚をして三人の子供を育ててくれたけいのことを、妻としても母としても、人間としても一番尊敬していた。
そんな事をがらんとした家の縁側に座って考えていた。
長男、長女、次女の三人の子らはけいに似て、全員心根が優しく他人の事を考えられる人間に育ってくれたと、久蔵は思う。それぞれが進学や就職やらで家を出て行き、今は近からぬ町で暮らしている。そして忙しいのにも拘らず、けいの葬儀が終わってからも父の為だと言って、十日あまり家で共に過ごしてくれた。
その間に長男には今の家を処分して自分たちと一緒に住むか、もしくは近くに部屋を借りてはどうかと提案されたのだが、久蔵はそれを拒んだ。
今更思い出のある家を引き払い、慣れ親しんだ町を離れるなど老身には堪える、といった考えも少しはあったが、久蔵にはどうしてもやりたいことがあったのだ。それはまだ小さい孫のいる長男の家では躊躇われることで、一人きりになった家の方が都合が良かった。
久蔵は何十年も前に決めていたことがあった。
もしも。
もしも、妻のけいが自分もよりも先に死んだのなら。
煙草を吸って、猫を飼おうと計画していたのだった。
久蔵の猫好きは身内はおろか近所でも中々に有名だった。さらに若い頃から久蔵と親交のある知人であれば、かつての久蔵はヘビースモーカーであったことも知っているだろう。
けれどもこの家に猫の気配はなく、煙草はおろか灰皿すら置いていない。
久蔵はある日を境に、この上なく好きだった猫と煙草を自分の周りから遠ざけたのだ。
◇
久蔵とけいは、いわゆるお見合いをした後に結婚をした。久蔵は農家の長男坊であったので、働き盛りの頃には親戚一同がお節介を焼いて嫁探しをしてくれたのだった。
周りが美人、美人と褒めそやすので一体どんな女が来るのかと胸弾ませていたのだが、実際にけいに初めて会った時は想像との落差に少々落ち込んだ。化粧っ気もなく、髪は乱れ、どういう訳か汗と泥とで汚れていたのだ。聞けば今日がお見合いだという事をすっかり忘れて、近所の子供らの面倒を見ながら一緒に遊んでいたらしい。けいは子供に懐かれる性分らしく、日中に働く親から子を預かって面倒を見て小遣いをもらうようなことをしていた。
見合いの席でも、けいは今自分のところに来ている子供たちの話ばかりをさも愉快に話すばかりで久蔵はおろか、けいの両親までもが呆れ顔になっていた。
しかし、この時の久蔵は既にけいに惚れていた。
面食い、とまでは言わないが久蔵も人並みに美人の女は好きだった。だが、けいに会って久蔵は「女は愛嬌」という言葉の意味を真に知った。
それからはトントン拍子に話が進み、結局は半年も経たぬうちに目出度く二人は結婚したのである。
ところが、結婚が決まってから分かったことが一つあった。
けいは生まれつき気管支が弱く、いわゆる喘息持ちだったのだ。
特に体質的に猫の毛と煙草の煙はご法度で、久蔵の事をよく知る者たちはこぞって心配をした。すると、その事を知った久蔵はすぐさま煙草と灰皿をゴミに出し、家に居ついていた数匹の猫も親戚や近所に頭を下げ、引き取ってもらうように動いた。
久蔵がけいが嫁いでくるためにそんな事をしていたと、けいが知っていたのかどうかは分からない。周りの者はどうかは知らないが、久蔵はその事を口に出したことは一度もなかった。久蔵にとってはけいの為に自分がしてやったことだと、唯一胸を張れる行動であるが、情けない程些細な事であるから、誰にも言わないのかもしれない。
以来、久蔵は猫にも煙草にも指一本触れずに今日までを過ごしてきた。
そして、その時に心に決めていたのだ。
もしも、けいが自分よりも先に死ぬことがあったなら、猫を飼って煙草を吸おうと。
◇
息子娘らがいる間に、久蔵は猫を手に入れる方法を一緒に考えてもらった。
ペットショップなどで金を払って猫を買う感覚など、久蔵には信じられなかったので結局はインターネットを通じて猫の里親募集のページを覗いてもらった。
できることなら仔猫よりも成猫、欲を言えば老描が欲しいところであった。すぐに死ぬつもりは更々ないが、本人にそのつもりがなくともどうなるかは分からないので、若い猫を飼うのは少々気が引けたのだ。
そして。
あれよこれよと言っているうちに、一つ話し合いがまとまった。
隣の県であるが、一匹の黒猫を引き取ってほしいという人がいたのだ。
自分で車を運転して引き取りに行っても良かったのだが、それは息子らに止められてしまった。近所への買い物程度ならいざ知らず、長距離の運転はさせられないと宥められた。
娘は事前に相手に連絡を取り、普段食べているキャットフードの銘柄などを聞いて、エサを含めトイレやその他の雑貨類を引き取る前に準備をしておこうと言い出した。久蔵の感覚としてはトイレなど庭先に出しておけば問題ないし、エサも焼いた魚でもやっておけばいいと思っていたのだが、今そんな飼い方をしていたら虐待になると諫められてしまった。
色々と相談をした結果、長男と次女と久蔵との三人で黒猫を引き取りに行く手筈となった。行きしなのペットショップでこれから必要なものを最低限揃え、最後にキャリーバックを買った。次女が勝手に可愛らしい物を選んだので、久蔵の趣味には合わなかったが文句を言うのは控えておいた。
娘がメールでのやり取りでまとめてくれた話では、先方は一匹の黒猫を持て余しているらしかった。なんでも近くの公園で弱っているところを見兼ねて保護したはいいものの、その後の飼育が難しくなってしまったという。
実際に会って話を聞いてみると、なるほど困っているなら人でも猫でも助けてしまっても何ら不思議のない、人の良さそうな中年夫婦であった。
かくして久蔵は半世紀ぶりに猫を飼うことになった。
黒猫を引き取って家に帰ると黒猫に今日からここがお前の家だと言おうとして、まだ名前を考えていない事に気が付いた。昔は適当にタマとかブチとか、見た目で名前を付けていたが、かつていた黒猫にクロと名前付けていたことがあったので、同じ名前にすることは何となく憚られた。
どんな名前にしてやろうかと考えていた。けれども久蔵の悩みは杞憂に終わったのだった。
居間に入るとすぐに息子娘夫婦と孫たちに猫を取られてしまった。その上に久蔵たちが黒猫を引き取りに行っている間に勝手に名前会議が始まっており、既に『ぼたもち』という立派な命名がされていたのである。
ぼたもちと呼ぶには体躯は細すぎる気もしたし、そもそもどういう経緯でぼたもちとなったかは知らぬが、今更別の名前に変更できる雰囲気ではなくなっていたので、久蔵は潔くぼたもちをぼたもちと呼ぶことにしたのだった。
◇
そうして家中がぼたもちの歓迎モードで賑やかだったのも昨日までの事。
今朝方に長男夫婦が家に戻っていたのを最後に、久蔵はようやく妻のいない家の広さを思い知った。
ぼたもちはというと、開けっ放しのケージの中でぷうぷうと鼻を鳴らしながら眠っていた。長距離の移動で初めての家に来た末、子供たちに好奇の目で扱われていたのだから無理はない。久蔵はそう思った。
座椅子に座って、久蔵は騒がしかったこの十日ばかりの生活を思っていた。
『ねがわくは 花のしたにて 春死なむ その如月の 望月のころ』
すると久蔵は、ふと西行法師の歌を思い出した。とりわけ和歌に精通している訳ではないが、若い時分にいつかどこかで聞いたこの歌がこの年になっても頭の片隅にのこっているのであった。けいは正しく、その歌の通りの時期に亡くなった。
思えばけいは運がいい女であったような気がした。
別に福引が当たったり、金運に恵まれているという事はなかったが、ふとした時に思いがけぬ助け船が入ることが多かった。自分なんぞと結婚したのだから、物や金に困らないという生活は送れなかったが、けいの周りには必ず人がいた。
けいは、よく人を呼び、人を繋げる女だった。本人にその自覚があったかは知れぬ。いや、恐らくはそんな事を考えた事もないだろうと久蔵は確信している。
現にこうやって当人の葬式の日も、息子娘らの夫婦らが仕事を変わって貰えるほどの忙しさに落ち着き、孫たちも春休みに被るかどうかの時期であったので、十日も久蔵と共にいてくれたのだ。
テーブルの上には一枚のメモが置いてあった。次女が書いてくれた事は字で大方分かった。メモにはエサのやり方やトイレの掃除の仕方、はたまた最寄りの動物病院までの道順や電話番号が記されていた。
久蔵は妻の運気の良さに大分おこぼれを貰って来たと思っていたが、隣で高いびきのぼたもちも中々運の強い猫のような気がした。
それからしばらく、テレビをつけたり新聞を読んだりして時間を過ごした。ぼたもちは一向に起きる気配がなかったので、久蔵は一人で散歩することにした。
畑仕事は明日からと思っていたので、目につかぬように気を付けた。色々と気が付くとつい手を出したくなってしまうからだ。
家を出た後で、もう一つの夢であった煙草の事を考え付いた。
何分田舎町なので煙草一つ買うのにも少し歩かなければならない。最寄りの煙草屋は去年の夏に廃業してしまい、今となっては片道二十分かかるコンビニが一番近い。
普段ならば一つだけの買い物のためにコンビニに行くなど億劫になり諦めるところだが、散歩のついでと考えればかえっていいコースになる。久蔵はポケットに財布があることを確かめてから、一路コンビニを目指した。
外は春の匂いに包まれていた。
ただでさえ人通りも車もあまり通らない道は、ウグイスの代わりとばかりに閑古鳥が鳴いている。大通りに出るまでは、まるで世界に自分しか人間がいないのではないかと錯覚するほどに静かなモノだった。
このご時世の田舎において未だに現役の銭湯の前を通り、橋を渡る。
目当てのコンビニに入ると、煙草を買う前に軽く店内を物色した。菓子や酒が目に入ったもののどうにも買う気にはなれなかった。結局店内を3,4周したものの、欲しいモノはこれと言って見つからず、煙草だけを買って店を出た。
思えば値段も銘柄も五十年以上も昔の思い出しかない。久蔵は何もかもが分からず、店員と一緒になってまごまごしてしまった自分が恥ずかしかった。ひょっとしたら、煙草を吸おうとしている自分にけいが罰を与えたのかも知れないと思った。そうすると、申し訳ないような気持ちの次に罰を受けたのだから吸ってもこれ以上の文句は出ないだろうと開き直ることが出来たのだった。
コンビニの前で吸っても良かったのだろうが、久蔵はここまで来たのなら自宅で吸ってやろうと妙な意気込みが生まれてきていたのに気が付いた。
この気分はなんなのだろうか。
久蔵はきっとこれは腹いせなのだと、自分で結論付けた。
煙草を吸うのも猫を飼うのも、自分よりも先に死んでしまった妻への腹いせだ。文句があるならいつもみたいに怒ればいい。自虐的な笑みを久蔵は上がった息でごまかした。
やがて家に辿り着くと、ぼたもちは起きていて居間にカリカリというエサを齧る音が響いていた。久蔵はポケットをテーブルに置くと、煙草を買っただけで灰皿もライターもないことに気が付いた。
家中を探してみても、当然ながらどちらも見つからない。仕方がないので、仏壇からチャッカマンを持ってきて、隣の和室の窓を開けて庭に灰を落とすことにした。
準備を終え、久蔵が胡坐をかいて座るとその上にぼたもちが乗った。
引き取った時から馬鹿に人懐っこい猫だと思ってはいたが、まさか昨日の今日で膝に乗ってくるとは思っていなかった。久蔵はぼたもちの頭を数回撫でると、気を取り直して煙草を咥えて火を付けた。
鼻孔と肺の中に五十年ぶりに紫煙が蔓延した。久しぶりの事なので咽そうになったが、久蔵はそれをどうにか堪えた。
そしてふうっと白い煙を空に向かって吐くと、一言だけ自分の耳にだけ届く声で呟いた。
「まっずい」
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