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辺りは薄青い場所へと変わった。水の波紋が光りに照らされ、そこかしこに反射し、とてもきれいだ。
足首は水に埋もれていた。ゆっくりと水の道を進んでいく。と、水の上に横たわる美女が目に映る。
「龍神……」
椋太がつぶやくと、光の花びらがきらきらと辺りに降り注いだ。水の上にも美しく積もっていく。
水が波打ち始める。徐々に激しさが増していき――波が光の花びらとともに火柱のごとく天高く伸び、龍神の姿を隠した。
波柱が飛び散る。雨のごとく降りしきる雫の中に人影が見えた。椋太は息をのむ。
緋色の着物をまとった美女が凛と立ち、椋太を見つめていた。紅を引いた薄い唇が形よく笑む。
「待ちわびたぞ。私の神守」
美女は笑みを絶やさぬまま、ゆっくりと椋太に近づく。
椋太の両頬に触れた手はとても冷たい。龍神の蒼い瞳が恍惚と、いとおしく細められる。
「会いたかった。――八尋」
椋太は目を見開き、そして理解する。
(ああ……そうだったのか)
龍神は、自分を見ていない。気づいて、いない。最初から、ずっと八尋を見ていたのだ。
「そなたがいなくなってから、私は怒りと悔しさに支配され、龍の姿となり空を駆け巡った。降り続いた雨は、大きな水流となり、多くの村人たちが死んだ。我に返った時には、もう、かつての村ではなくなっていたのだ。私は深い眠りにつくことで、己の力を封印したのだ」
そんな悲しいことがあったのか。胸が痛くなる。
「会いたかった。これからは、私とともに。もう、そなたと私を隔てるものは何もない」
八尋を求める白い腕を、椋太は避ける。
「どうした、八尋」
龍神の声音は、とても優しい。
「僕は、八尋さんではありません」
「何を言っておる。そなたは八尋。私が忘れるわけがない。そのまなざし、まぎれもなく――」
蒼い目が、いとおしそうに見つめる。八尋が一方的に龍神を想っていたのではない。二人は、愛し合っていたのだ――。
「僕は、八尋さんから神守を託されました。八尋さんはもう……いないんです」
龍神はふっと微笑む。
「そなたはちゃんと、ここにいるではないか。魂は、私を求めてさまよっていたのだろう?」
龍神の瞳は幻を見続けたままだ。どうしたら正気に戻せるだろう。
「さぁ今度こそ私とともに」
「行けません。僕は――」
「長い時の中で、思いが薄れてしまったのか。私はずっとそなたのことを待っていたのに」
龍神の目の中に、八尋との日々が映っていく。龍神の時は、いまだに止まったままなのだ。
「私はずっと……」
地に足が引っ張られた。一気に水の中に沈んでいく。龍神の手が椋太の手を握る。気持ちが勝手に流れ込んでくる。――相手を愛おしく想う気持ちが。
このまま、身を委ねてしまいたい。
『絶対に帰って来て』
この声は、誰だったか。
何もかもがどうでもよくなっていく。すべてが水の奥深くへ沈んでいく。
「八尋」
名が心地よく呼ばれる。
深く深く、静かで誰も来ることができない、もう戻ることができない場所へ。偽りの身のまま。
(……違う)
急に胸が熱を帯びる。これまでの記憶が一気に駆け巡っていく。――椋太は龍神の手を離した。
(僕は行けない。帰るんだ。あの場所へ。たとえ運命が変わらなくても。最後まで自分を生き抜く!)
そう強く思った時だった。水が大きくうねりだし、一瞬ではじけた。
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