25人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ どこにもない地図
霞に似た雲が浮かぶ秋空の下、薄く鏡色に光る川が流れている。
小さな石橋の近くには公園が広がっていた。川沿いに植えられたトチノキやコナラが穏やかに色づき、あたりは中黄色に染まっている。
その敷地の隅、川を眺めるように設けられた木組みのベンチに若い女性が座っていた。
紺のシャツワンピースに薄手のカーディガンを羽織り、ウェーブがかった髪は高い位置でポニーテールにまとめられている。
彼女はスマートフォンを取り出し、すっとした奥二重の眼差しを画面に落とした。社内SNSアプリをクリックし、静かにため息をつく。
社員名が並ぶDM欄は、以前であれば休日も関係なく真っ赤なメッセージ通知で埋まっていた。
しかし、今は何も表示されていない。タスクを確認するためにユーザー一覧の「清宮舞」をクリックしたが、個人スペース内に残っている仕事もない。
舞は両手をベンチについて空を仰いだ。
「暇だ……」
舞が勤める「待宵町印刷会社」は、慢性的な人手不足に陥っていた中小企業で、つい半年前まで休日などない状態だった。
ところが、体調を崩した先代の社長が甥に会社を譲った途端、社内環境はあっという間に改善した。
中途採用で人員が増え、週休二日が徹底されるようになったのだ。きちんと休みが取れるようになってから、もう三ヶ月近く経っている。
新しい社長は、もともとIT系のベンチャー企業で働いていたらしい。
彼がその社風を持ち込んだことで、リモートワークが推進され、育休中の社員が復職する目処も立った。社内SNSの雰囲気も和やかになり、最近は町のおすすめグルメ情報が飛び交っている。
かくして、四年ぶりにまともな休日を得た舞は、突然出現した休みを完全に持て余していた。
「急に皆が習い事を始めたのは、こういうことだったのね……」
大学時代に所属した旅行サークルの同期たちは、就職後に相次いで趣味を増やした。料理教室や生け花、登山にダイビングのライセンスなど、内容はバラエティに富んでいた。
同期のグループメッセージで何度か誘われていたが、仕事に追われて返事をし損ねているうちに、気付けばいつも流れてしまっていた。
そのツケが思わぬ形で回ってきている。
家事をするにも、整理整頓が性分のせいで掃除する場所がない。作り置きも三十分あれば終わってしまう。
効率重視で生きてきた舞は、時間をどう使っていいのかわからなかった。
仕方がないので、週末になるたびあてもなく散歩を繰り返している。
「……まだ、三十分しか経ってない」
舞は深々とため息をついた。このベンチから眺める景色は気に入っているが、かといってこれ以上ここに座っているのも限界だ。
再びスマートフォンを開いた舞は、さっと立ち上がって歩き出した。
石橋を渡り始めた舞は、川の流れていく先に視線を向ける。
空がいつの間にか高くなった、と思った。
澄んだ紺青色に、季節が秋になっていたのだと今更実感した。水面は次第に川幅が広がり、頑丈に組まれた太い橋には車が行き交っている。就職を機に待宵町へ引っ越してきた時、舞も通った橋だ。
何気なくスマートフォンをかざし、写真を撮って再び歩き出す。
誰に見せるわけでもないのに、時折撮ってしまうことがあった。フォルダにはどういうわけか、橋や川の画像ばかりが並んでいる。
橋を渡りきった後、舞の足取りは市街地のほうへと向かっていく。
待宵町は埼玉県の中部にある小さな町だ。
江戸時代には秩父と川越を繋ぐ街道が町の東西を走り、貿易の中継地点として栄えたという。
面積の大半を山が占め、住宅街は川の周辺に集中している。
町で一番活気がある待宵町駅周辺の市街地も、北を流れる晴川と、舞が渡った境川に挟まれるようにして広がっていた。
地元民が歩く普通の街並みの中に、時折古い旅館跡や蔵が顔を覗かせる。
町役場の掲示板には、観光用ポスターや新たなイベントのチラシが目立つ。
近年の待宵町は第二の川越を目指し、色々と施策を打ち出している。だが、景観整備が徹底されないせいか観光客の姿はあまり見かけない。
町役場を通り過ぎてしばらくした頃、個人経営の飲食店や雑貨屋が並ぶ道の一角で、舞はふいに足を止めた。
――架空地図展、開催中。本日は無人営業です。購入希望の方は、以下メールアドレスまでご連絡ください。
黒看板にチョークで書かれた文字は、走り書きに近い傾斜が付いている。
「……すごい、シンプルな看板」
あまりに商売っ気のない簡素な看板に、舞は建物に目を向けた。
三階建ての白いビル。その一階部分が、展示スペースとして開放されているようだった。
道に面する部分はすべて、木枠に囲まれた大きなガラス窓が並んでいる。窓越しに見える棚には、どこか懐かしい色合いで描かれた地図が飾られていた。
店内には誰もいない。中央の扉を引いて、舞は店に入る。
無人営業のせいか、あたりはしんと静まっていた。かと言って冷たい感じはなく、包み込まれるような空気感で満たされている。
向かって右手の壁沿いには棚が二つ並び、額縁に入った地図が展示されていた。
舞はその中に設置された展示紹介のパネルを眺めた。
作者は新進気鋭のイラストレーター「Mey」。架空世界の地図をテーマにネットで作品を公開している。今回は待宵町在住という縁で初の個展開催が決まったらしい。既に売約済みの札が貼られた絵もあった。
パネルのそばに置かれた名刺を一枚取った。セピア色の紙に、小さな町の地図が描かれている。
Meyの作品はどれも、不思議と奥行きのある地図だった。
基本的な線は鉛筆で、教会や川、煙突の屋根などに水彩画に似た着色が施されている。大陸全体を描いたものから、村の一部を切り取った作品まである。
緻密に組まれたようでいて、線の数はそれほど多くなかった。対象物も一部は簡略化され、引きで見たときに丁度良いバランスが保たれている。
どこまで描けば地図として成立するのか、作者の中にある明確な指針が伝わってきた。
「こんなリアルなのに、どこにもないんだ……」
どこにもないはずの世界を、何故この人は描けるのだろう。
――自分は、今いる場所さえよくわからないというのに。
地図から視線を逸らした舞は、その先にある一際古びた棚に目を留めた。
舞の背丈より少し高い、マホガニー材の棚だ。ガラスのついた扉は開かれ、中の棚にも地図が飾られている。下にある開き戸は全体の三分の一ほどを占め、色濃く映る木目の中に銀の鍵穴が光っていた。
アンティークのようだが、元は一体何が入っていたのだろう。棚に興味を抱いた舞は、何気なく反対側の側面に回り込む。
「――」
その時、舞は小さなチラシの存在に気付いた。
入口からは死角になる位置に貼ってあったそのチラシは、白い紙に印字されただけの、とてもシンプルなデザインだった。
『当店は、週末限定でアルバイトを募集しています。興味のある方は、以下連絡先までお問い合わせください。週末文庫店主 橋本司』
最初のコメントを投稿しよう!