一話 刻まれたメニューボード

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一話 刻まれたメニューボード

   1    十一月になり、冬の気配が少しずつ近づいている。  その日はよく晴れていて、大きな窓から店内に光が差し込んでいた。マホガニー材の棚には、磨かれたカップとソーサーのセットや古びたコーヒーミル、サイフォンが並んでいる。  深い飴色のカウンターの中で、舞は黒のエプロン姿でコーヒーの準備をしていた。  週末文庫にアルバイトとして採用されてから一ヶ月が経ち、淹れる手つきが形になっている。 「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーです」  カウンター席に座っているのは、ロマンスグレーの髪色が印象的な老人だ。  手元の文庫本に栞を挟んだ彼は、老眼鏡を軽くかけなおし、白いカップを受け取って口をつける。 「うん、美味しい。先週と比べて更に良くなっている気がするね」 「ありがとうございます。張間さんが、色々と教えてくださったから」 「舞ちゃんの筋がいいんだよ。その様子だと、家でも練習しているんじゃないかね」  そう言って、張間國彦(はりまくにひこ)は目を細める。  週末文庫は待宵町で長く続く唯一の純喫茶だった。國彦は先代の頃からの常連客だ。定年退職後、町の片隅で切手屋を営んでいるらしい。 「手を動かさないと、忘れてしまうんじゃないかと思って」 「おお、かなり復習熱心だね」 「……そうですか?」  國彦は毎週店に現れ、先代から聞いたというコーヒーのコツをひとしきり話している。  この一ヶ月、訪れる喫茶の客は彼だけだった。  コーヒーの練習をしようにも、飲む相手がいなければどうにもならない。  この店で働くまではインスタントばかり淹れていた舞にとって、國彦は師匠のような存在になっていた。 「新しいメニューを練習してもいい頃合いかもしれんね。ここはカフェラテも美味しかったんだよ。ミルクの温度が重要で、温めすぎても泡立ちが悪くなるという話だったが」 「ミルクの泡は、ミキサーかなにかで?」 「耕三(こうぞう)さんは泡立て器を使っていたよ。三分ほどかき混ぜるといい泡が浮かんでくるから、それを崩さないようにすくって……」  舞がカウンターから少し身を乗り出した時、店の扉が開いた。 「ごめんね清宮さん、遅くなった」 「おや、珍しい。司君じゃないか」  ジャケットに通勤リュックを背負った男性は、目元を優しげに緩めた。 「こんにちは、國さん。いつもありがとうございます」  控えめな印象を受ける顔立ちだが、切れ長の瞳や細く通った鼻筋など一つ一つが整っていた。シュッとした輪郭に、細身の背中がすらっと伸びている。 「今日も仕事だったのかね、日曜日じゃないか」 「急に呼ばれてしまって。でも、今日は午前だけで済みましたから。荷物置いてきますね」  ネクタイを外しながら、司は店の二階へ上がっていく。今年で三十一になったというが、その横顔は穏やかな雰囲気も相まって若く見える。 「忙しそうですね、橋本さん」  司は亡くなった先代店主・瀬戸耕三の孫で、半年ほど前にあとを継いだばかりだという。  彼は平日仕事があるので、代替わりしてからは週末だけ営業している。  もともと純喫茶だった週末文庫は、今は何故か古家具販売がメインになっていた。  店を畳んだ喫茶店などから使っていた家具や食器類を引き取り、場合によっては修繕して出している。  棚に並んだカップやサイフォンなどもすべて売り物だ。アンティークと呼ぶにはまだ新しく、付けている値段は安価なものが多い。  売れ行きは芳しくないが、それでも時折、どこで噂を聞いたのか買いに来る客が現れる。  喫茶営業はおまけのようなものだった。 「一時はどうなることかと思ったがね。こうして店が続いただけでもありがたい。舞ちゃんが来てくれるようになったおかげで、存続が決まったようなものさ」  え、と舞が振り返ると、國彦はため息まじりに言った。 「最近はずっと無人営業だったからね。この辺の人達でなんとなく見守ってはいたが、限度があるだろう。求人を出すように勧めてよかったよ」 「あ、だからあのチラシ……」  舞が納得した時、トントンと階段を降りる音が聞こえてくる。再び姿を見せた司は、淡いグレーのリブニットに黒いエプロンをかけていた。 「司君、今日は泊まって行けるのかね」 「ええ。代休が取れたので、明日は上を少し片付けようかと。遺品整理が全然進んでなくて」  待宵町は都内に通勤する住民も多いが、電車で片道一時間半強、往復で三時間は超える。都内のマンションに住む司は、週末になると待宵町まで来て、店内の整理と営業を一人で続けていたらしい。 「國さん、お腹空いてないですか。今からホットドッグ作ろうと思って」 「そうだな。じゃあ一つもらおうかな」 「私がやりますよ。橋本さんはとりあえず座ってください、お疲れでしょう」 「そう? でも……」  司が躊躇ったのを見て取ったのか、國彦が彼を手招いた。 「いいからいいから。ほら、ここに座りなさい。話し相手がいないと退屈だ」  司が國彦の隣に座った姿を横目に、舞は冷蔵庫からレタスとソーセージの袋を取り出す。レタスを二枚ちぎって手早く洗い、水気を切っている間に油を引いたフライパンを温める。  トースターに市販のドッグロールを入れ、フライパンでソーセージを焼き始めた頃、プレートを用意していた舞の耳に二人の会話が届いた。 「少し痩せたように見えるが、きちんと食べているのかね」 「大丈夫ですよ。特に体重が変わったわけでもないですし、健康です。國さんこそ、朝の体操は続いているんですか。寺ヨガでしたっけ」 「もちろんだ。しかし、最近住職がサボっているんだよ」  トースターのタイマー音が鳴り、舞は火を止めてホットドッグをセットし始めた。  レタスとソーセージを挟んだ後、ケチャップを取り出そうと冷蔵庫を開けたその手が、ふと思いついたように奥へと伸びる。 「お嬢さんがせっかくヨガ講師として頑張っているというのに、住職が乗り気じゃないとは困ったものだ。最近朝が苦手になったと言い訳しているが、あれは夜な夜な深酒しているだけだ」 「あれ、そこの住職って禁酒していたんじゃ……」 「早々に諦めたらしい。今やお嬢さんが寺を切り盛りしているから、住職がいなくても問題はないだろうが」  会話の切れ間ができた時、舞はカウンターにプレートを二つ出した。 「お待たせしました。温かいうちに召し上がってください」 「おや。舞ちゃん、この付け合わせは?」 「マリネです。食べようと思って、タッパーで持って来てあって」  いつもはピーマンときのこだけのところが、今日は黄色のパプリカも入っている。  買い物に行った時、何故か目についたのだ。ホットドッグを載せるには少し大きかった白いプレートは、マリネを添えたことで収まりが良くなっていた。 「もしかして、清宮さんのお弁当だった?」 「まあ、お弁当と言えば聞こえはいいんですけど」  司は驚いた表情でプレートを見ているが、舞にしてみればそこまでのものではなかった。弁当箱に詰めるのも面倒だったので、作り置きした時のタッパーをそのまま持って出ただけだ。 「あ、お代はもちろん頂かないので! 昨日作ったばかりだから傷みもないと思います。パプリカも買ったばかりで……」 「心配はしとらんよ。随分と細やかな配慮をするんだね」  傷みに言及した舞に、國彦はおかしそうに笑った。 「しかし、舞ちゃんの昼ご飯が減ってしまったんじゃないかね」 「大丈夫ですよ。それに、来る途中でサンドイッチも買ったんです。張間さんに勧めていただいた日替わりの」 「『とものパン』か。あそこは美味しいだろう。今日は何だったのかな」 「照り焼きチキンと卵のサンドイッチでした」  二人が話しているそばで、司はマリネを黙々と食べている。 「味、どうですか。酢を多めにしたので、酸味が強かったかも……」 「ちょうどいいよ、むしろ沁みるというか。こんなにまともな野菜食べたの久々だな」 「司君、きちんと食べていると言っていただろう」 「ついコンビニで買ってしまうんですよね、自炊する時間もなくて。清宮さんは普段どうしてるの?」 「忙しい時は、夜中に作り置きしてました。お昼も大体それで回してて」 「そっか。すごいなぁ、本当に偉いよ。尊敬する」  マリネを食べきった司はホットドッグに手をつける。  あっという間に短くなっていくパンを眺めながら、舞は何とも言えない気持ちになっていた。  社会人になってしばらくしてから、舞も司と似たような生活をしていた時期があった。彼の言い分はよくわかるのだ。  作り置きや弁当にしたって、単純にコスパを考えた末、結局それが一番合理的だと判断しただけの話だ。 「國さんも一人暮らしでしたよね。自炊とかどうしてます?」 「実は、少し前から漬物にはまっているんだよ。あれは実に奥が深い。亡くなった妻が凝っていた時は随分と熱心にやるのだなと思っていたが、自分でやってみて気持ちがわかったね。特にぬか床が……」  國彦のぬか床トークが続く中、舞は司のプレートを下げてコーヒーの準備を始めた。冷凍庫で保存している豆を取り出しながら、舞は國彦との会話を反芻する。  現状、喫茶のメニューはブレンドコーヒーとホットドッグだけだ。  考えてみれば、メニューが二つというのはあまりに少ない。國彦がコーヒーの淹れ方を熱心に教えてくれるのも、おそらく今後を憂えてのことだ。今の客入りで店が維持できるとは舞にも思えない。  週末文庫に採用されてから一ヶ月。司が店にいられたのは最初の二日だけだった。  店主から早々に放っておかれた状況に、実のところ舞は戸惑っていた。  いっそ辞めてしまおうかとも思ったが、あの架空地図の展示が琴線に触れたのだから仕方ない。どうしてこの場所に惹かれたのか、その理由を探す必要があると舞は感じていた。  コーヒーミルに豆を入れてつまみを回す。  機械音が響きながら、細かい粉が降り積もっていく。  少し前から、舞は転職を考えていた。  転職サイトを開いては都内の求人を眺めている状態だ。とは言っても、次に何をやればいいのか一向に掴めず、具体的な行動にはまだ至っていない。  それに、このまま待宵町を出て行って、本当にいいのだろうかという迷いもあった。  四年以上住んでいたはずなのに、この町のことを結局何も知らないままなのだ。今まで過ごした時間は一体なんだったのか、という疑問も残る。  せめて、自分が暮らした町をもう少し知ってから出て行きたい。  舞があてもない散歩を毎週繰り返していたのは、そういう動機もあった。 「ぬか漬けって、何をつけているんですか。人参と大根のイメージしかないんですけど」 「あれは意外となんでも漬けられるんだよ。オクラとか、あとはゆで卵も美味しいんだ」 「えっ、ゆで卵ですか」  司の驚いたような反応に、國彦は楽しげに笑っている。  この店で一ヶ月過ごせたのは、毎週必ず訪れる國彦の存在も大きかった。  コーヒーの淹れ方を通して、彼は先代がいた頃の週末文庫を舞に話していた。思い出を詳細に語られたわけではないが、國彦の話を聞いていると、カウンターに立つ先代の姿が見えるような気がした。  もう会うことは叶わない先代の人物像にも、舞は興味を抱いていた。  きっと國彦は、この店が続いて欲しいと思っている。だからあとを継いだ司を気にかけているのだろう。  その司自身は今後についてどう考えているのか、まだ明確な指針が見えてこない。仕事の流れをざっと教わって以来、今まで落ち着いて話をする時間もとれていなかった。   「――え、料理ができない?」  國彦が帰った後、二人きりになった店内で舞は目を見開いた。 「家庭科の成績、最高値が二でさ」 「何段階評価だったんですか」 「十だけど」  限りなく最低値に近い。  舞は思わず頭を抱えそうになったが、司が既に浮かない顔をしているので追い詰めるわけにもいかず、どうにか冷静さを保って言った。 「もしかして、普段コンロを使わないのって」 「火と相性が悪いみたいで、必ずひどく焦げるんだよ」 「あー……」  舞はフライパンでソーセージを焼くが、彼は確かにすべてをトースターで済ませていた。 「いっそのこと、喫茶をやめるのはどうですか? 販売メインにすれば、喫茶の区画にも商品が置けるでしょう」  店内はカウンター席が五つある他に、丸いテーブル席が三つ窓際に配置されている。  架空地図の展示中は、テーブルの上にも一枚ずつ絵が置いてあった。外から見えるように商品を置けば、きっと通行人の目にも留まる。 「僕もそのつもりだったんだけど……常連さんは、一息つきたいって来てくれるから」  お湯さえ沸かせれば用意できるコーヒーと、すべてトースターで事が済むホットドッグ。  彼にしてみれば苦肉の策だったのだろう。舞はそれ以上かける言葉が見つからず、棚に置いてあるカップを一つずつ拭き始める。  あの架空地図の展示に惹かれ、企画した店主の顔が見たいと思って求人に応募したが、まさか平日は自分と同じ会社員だとは想像もしていなかった。  店の経営は副業でやるには重すぎる。いくら祖父の店だったとはいえ、舞が同じ立場なら続ける選択肢はなかっただろう。  ―― 一時はどうなることかと思ったがね。こうして店が続いただけでもありがたい。 「……」  せっかく見つけた副業だ。舞もできるだけのことはしたいと思っている。  だが、店を続けるために一体何ができるのか、すぐには思いつかなかった。
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