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二月に入り、舞の会社ではアプリ開発のプロジェクトが本格化していた。
他の仕事が終わったデザイナーも順次参加し、デザイン方針の検討やラフ案の描き起こしが、明を中心に始められている。
舞はアプリに掲載する町の情報を集めるため、観光協会にコンタクトを取っていた。担当者が同年代だったこともあって感触がよく、協会側の要望も反映できるよう話し合いを進めている。
司も定期的に打ち合わせに参加している。
週末、二人で店にいる時も、仕様の相談などアプリの話になることが多かった。
楽しそうにシステム設計の話をする司に、舞は安心する一方で、あの紺色のノートについてはなかなか切り出せずにいた。彼の表情を曇らせてしまうのではないかと思い、つい先送りにしてしまっている。
次の週末には聞こうと思いながら、気づけば二月も下旬に差し掛かっていた。
日曜日の昼下がり、店内にいる客はコーヒーを飲む國彦だけだった。
カウンター内のスツールに座り、店頭に出す予定のカトラリーを磨く司と穏やかな談笑が続いている。
舞は一眼レフを構え、日の差すテーブルに置いたサイフォンセットを撮影していた。
三十年前まで製造されていたもので、粉を入れる部分が花のような形になっている。劣化していたランプ芯や濾過布の交換が終わって、あとは棚に並べるだけになっていた。
「司君、なにかいいことでもあったのかね。最近は顔色がいいように見えるが」
「そうですか? なんだろう、有休中なので睡眠時間は増えましたけど」
司はスプーンの錆を落としながら、「うーん」と首をひねっている。
シャッターを切っていた舞は、聞こえて来た司の返事にほっとしていた。
仕事の対応がとにかく早いのだ。舞たちが「一週間程度」と見積もっていても、大抵次の日には返事が送られて来る。もしかして四六時中アプリのことを考えているのではないかと心配していた。
「最近、舞さんの会社と仕事しているんです。久々の開発で楽しくて。そのせいかもしれません」
司は町歩きアプリについて話し始めたが、國彦に伝わりにくそうな用語はすべて飛ばして、端的な機能説明に終始していた。
「なるほど。町内会でも、観光客に関する議題はよく出ているんだよ。観光協会も頑張ってはいるが、若い層にどう呼びかけるか苦心しているようでね」
舞は一眼レフを置くと、サイフォンセットを棚に並べながら言った。
「デザインは、Meyさんにお願いすることになっているんですよ。あの架空地図の雰囲気で、待宵町が表現できたらいいんじゃないかと思って」
「それはいい。あの展示はとても良かったからね。耕三さんは彼の絵を気に入っていて、しきりに展示を勧めていたんだよ。彼に重い腰を上げさせるのは大変だったようで」
「あれって、先代の希望だったんですね。Meyさんとお会いした時、先代の思い出を色々伺ったんですよ。お二人は木陰文庫の話ってご存知でしたか」
舞がカウンターを振り返った時、どうしてなのか國彦は言葉を詰まらせていた。
「舞さん、木陰文庫って?」
「聞いたことありませんか。国分寺にあった喫茶店だそうで……」
明から聞いた木陰文庫の話をしながら、舞は内心首を傾げていた。
明が知っていて、もっと古い付き合いだった國彦が知らないなんてあり得るのだろうか。
舞の話に耳を傾けていた司は、カトラリーを磨いていた手を止め、安心したように呟いた。
「そっか。なら、古家具販売は続けて良かったんだ」
「……えっ?」
「ずっと、本当にこれでいいのか迷っていたんだよね。祖父はこう考えていたかもしれない、と思って色々進めてきたけど、全部僕の憶測に過ぎないんじゃないかって」
どこか自信がなさそうに笑う司に、舞は思わず尋ねた。
「どうして、そんな風に思うんですか」
先代の話をする時、司はいつも心もとない表情をしている。
彼から初めて遺言の話を打ち明けられた時も、今と同じような空気が漂っていた。
「最後に祖父と会った時、何を話したのかほとんど覚えていないんだ。何か大事な約束をした気はするんだけど、それがなんだったのか思い出せない」
「……それって、いつのことだったんですか」
「高校……一年だったかな。十五年くらい前だね」
舞は、紺色のノートに残された筆跡を思い出した。
――久しぶりに来たけど、色々変わっていて驚きました。このまま、僕の知らない町になるんだと思いました。
先代が亡くなるまで司がこの町に近寄らなかった理由が、舞にはずっとわからなかった。
もし、十五年前の司があのコメントを書いたのだとしたら。
当時の彼は一体どんな気持ちでいたのだろう。
そして、先代はどうして返事を書かなかったのだろう――
「多分、店のことだろうとは思っていたんだ。子供の頃はよく遊びに来ていたし、後を継ぐとか、そういう話だったのかなと勝手に解釈していたから、遺言を聞いたときにちょっと驚いて。……約束を忘れるような薄情な孫に、譲る店はないってことかもしれないなと」
「司くん、それは違う」
冗談めかして司が肩をすくめた時、それまでずっと黙っていた國彦が重たい口を開くように言った。
「……國さん?」
「耕三さんはおそらく、君に負担をかけたくなかっただけだ。だから、私にも極力店の話はしてくれるなと言っていた」
「それは……」
司が何かを言いかけた時、店の扉が開いた。
「すみません、家具の引き取りを予約していたんですけど」
「ああ、お待ちしておりました。今ご案内しますね」
入って来た男性客を、司は販売スペースの方に誘導した。
来客対応が始まった途端、司はいつもの様子に戻っている。部屋の奥で話し込んでいる二人を、舞が心配そうに見つめる傍ら、國彦は深々とため息をついた。
「遺言のことは聞いていたが……あんなに悩んでいるとは思わなかったな」
この様子だと、木陰文庫の話も知っていたのだろう。舞は國彦の空いたカップを手に取ると、カウンターの中に回り込んだ。
「あの時、どうしてノートを読むように勧めたんですか」
國彦の提案には、不自然さを感じていたのだ。判子の場所を探すには遠回りにも程がある。先代と親しくしていたのなら、きっとあの紺色のノートの話も聞いていたのだろう。
舞の手元で、スポンジに洗剤が染み込んでいく。少しずつ泡が浮き始めた頃、國彦は小さく頷いた。
「耕三さんの、命日が近づいているんだ」
「――」
「彼は長いこと困っていたんだよ。孫に返事が書けないって。でも、まだ元気だった頃に……返事が書けたと言っていたから」
え、と舞は國彦に視線を向けた。
「第三者が勝手に話すより、耕三さんの言葉を見た方がいいだろうと思ってね」
「でも、ノートには返事がありませんでしたけど」
「……変だな。何か別のものに書いたんだろうか」
先代の遺品整理は司がほとんど済ませてある。店内も舞がくまなく探し回った。他にどこか心当たりはないかと舞が尋ねると、國彦は難しい顔をして考え込んだ。
舞はカップを洗いながら、会ったことのない先代に若干怒りのような感情を覚えていた。
何か伝えたいことがあるなら、遺言書にそのまま書けばよかったのだ。
どうしてこんなに回りくどいことをするのか、舞には理解できなかった。
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