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外は薄暗くなり、店内には閉店作業を進める舞と司だけが残っている。
あれから國彦と二人で色々相談したものの、結局それらしい場所はどこも思いつかなかった。
マホガニー材の棚を拭いていた舞は、カウンターの中にいる司を時折見遣った。特に話す様子もなく、黙々と流しを磨く姿に、どうやって声をかければいいのかわからなかった。
今日はこのまま帰ろうかと思っていた時、司が「舞さん」と口火を切った。
「さっきはごめん、変な話聞かせたね」
「いえ、そんな……」
「多分、國さんの言う通りなんだと思う。お客さんから聞く祖父は優しいから、何かしら真意があったんじゃないかと……そう思ってはいるんだけどさ」
司は店内を見回すと、困ったように笑った。
「祖父のこともそうだし、この町のことも全然覚えていないから、手詰まり感があるんだよね。店を続けてみれば、何かわかるんじゃないかと期待してたんだけど」
あっという間に一年が経つんだな。そう呟いた司の、どこか所在無いような雰囲気がわかった舞は、反射的にカウンターへ近寄った。
「司さんは、どうして先代に会いに行ったんですか」
「どうして、って」
「だって、お引越しされて以来ほとんど町に来ていなかったんですよね。……なにか大切な理由があったんじゃないですか?」
舞はカウンターテーブルに両手をつくと、向こう側にいる司をじっと見つめた。
この町のことをよく覚えていないのだと、そう話す司はいつも寂しそうだった。幼少期の思い出を語る自分が、どんな表情をしているのか気づいてもいなかった。
誰でも受け入れるようでいて、必ず一線を引いているその理由を舞は知りたかった。司から手を差し伸べられたように、今度は舞が手を伸ばしたかった。
――マイマイは、その線を越えたいんだ。
脳裏をよぎった雅の言葉に、舞は心の中でやっと頷いた。いつの間にか、司のことを大切に思うようになっていたのだ。
「……個人的な話には、なるんだけど」
舞の瞳を一身に受けていた司は、しばらくして根負けしたように息をついた。
「うちの両親は離婚しててさ。この町から引っ越したのは、母方に引き取られたからなんだ」
司はカウンター内のスツールに腰掛けると、とつとつと話し始めた。
母方に引き取られた司は、定期的に父親とも会っていた。父親が司の住む都内に来ることもあれば、司が待宵町にいくこともあった。
本当は生まれ育った町に住み続けたかったが、母親の手前言い出せなかった。
当初は頻繁に町へ戻っていた司の足も、次第に遠のくようになっていた。もうそこが帰る場所ではなくなってしまったことを、突きつけられるようで怖かったのだ。
しかし、ある日父親から、再婚が決まって町を出ていくことになったと聞かされた司は、足元が抜け落ちたような感覚に襲われた。
これで本当に、帰る理由がなくなってしまったのだ。
「で、最後にここに来たんだよね。うちの母親、僕が町に行くって言うとあまりいい顔しなかったから。もう終わったことだし、親の離婚も整理はついてるんだ。人間、昔と同じままじゃいられないだろうし」
「……」
「ただ、気づいたら町のことがほとんど思い出せなくなっててさ。随分時間も経ったから、仕方ないとは思っているんだけど」
妙に淡々と話す司を前に、舞は彼のことを理解し始めていた。
司は無意識のうちに、この町の記憶に蓋をしている。
だから今のままでは思い出せるはずもない。
司は終わったことだと言っているが、彼の感情は明らかに置き去りにされてしまったままだ。
「棚とノートっていう遺言も、直前になって追記したんだって。この前、父親から聞いた」
「追記、ですか?」
「事前に用意してあったのは、父親宛だけだったらしいんだよね。病状が悪化して、父親にそれだけ言付けたって。架空地図の企画展もずっと準備してたみたいだから、本人は死ぬつもりなかったんだろうけど」
司はマホガニー材の棚に視線を向け、道に迷った子供のように言った。
「何を考えていたんだろうな、あの人は」
舞もまた棚を見つめ、先代の遺言について考えを巡らせていた。
直前になって残したものだったのなら、やっぱり意図があったのだろう。舞は先代の遺言をあまりに回りくどいと感じていたが、そんな間際に遠回しな伝え方を選ぶとは思えなかった。
「……司さん、あの棚の鍵を出してもらえませんか」
「鍵?」
「判子の話があった時、店中探せるだけ探しましたけど、あの下の開き戸だけは手付かずなんです。それに遺言を素直に受け取るなら、棚に何か入っていると考えるのが筋です」
「それは僕も思ったけど、でも開かなかったんだよな……」
二階に上がって行った司は、ヴィンテージ風の古びた鍵を持って戻って来る。
木目の中に光る銀の鍵穴に、司は鍵を入れて何度か回す。
ガタガタと扉を引いてみても一向に開く気配はない。
だが、舞は開き戸を注視していた。扉が傾いている気がしたのと、上部にあるわずかな隙間が気になったのだ。
「ちょっと、貸してもらっていいですか」
舞は鍵を受け取り、鍵穴に入れるとゆっくり回してみた。何かに引っかかっているような手応えを覚え、そのまま試行錯誤を繰り返す。
最終的に、取手を掴んで扉を持ち上げながら鍵を動かしたところ、ガチャリと鍵が回った。
「やった! いきましたよ!」
舞が扉を開けると、棚には菓子箱が一つだけぽつんと置いてあった。
蓋の上部には天石堂のロゴが刻まれている。先代も食べていたのかと思いながら司を振り返ると、彼は箱を前に呆然としていた。
舞は棚から箱を取り出し、司にそっと手渡した。
「どうぞ、司さん」
「……ありがとう」
その後も、司は蓋に手をかけたままためらっていたが、やっと決心がついたのか、おそるおそる蓋を開ける。
箱の中には、乳白色の石で作られた判子と、その下に細長い封筒が一枚入っていた。
「やっぱりここにあったんですね、判子」
「僕はてっきり、どこかに隠し場所があるのかと思ってたよ。國さんが、大事なものをしまう場所なんていうから……」
司は判子を眺めた後、封筒から一筆箋を取り出した。
姿形が変わっても、町はずっとここにある。いつでも帰って来ていいんだ。
「これは……?」
少し斜めに崩した文字は、ノートに残っていた先代の返事と同じ筆跡だった。
「お返事ですよ。司さん、十五年前にノートにコメント書いたでしょう。先代がずっと悩んでいたって、さっき張間さんも言っていたんですよ」
司は一筆箋を持ったまま、先代の筆跡に視線を落としていた。
初めは首を傾げていた司だったが、次第に自分が書いた内容が思い浮かんで来たのか、一筆箋を持つ彼の手が震え始める。
「……そうか」
かすかに揺れる声とともに、一筆箋の上に水滴が落ちる。
「帰って来て、良かったんだ……じいちゃん……」
司の瞳から、次々と涙がこぼれていく。
彼の様子を見つめていた舞は、ポケットに入れていたチェックのハンカチを司に差し出した。
司は舞からハンカチを受け取ると、赤く滲んだ目元を押さえた。そして、それからしばらくの間、舞のそばで静かに肩を震わせていた。
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