四話 ノートに残されたもの

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   *  二月が終わり、三月に入った。  気温は少しずつ上がり始め、日中は暖かさを感じるようになっていた。下旬に差し掛かる頃にはコートのいらない日も増え、舞と司は紺色のスーツとジャケットで町を歩いている。 「昔のマップが出てくる機能をつけたら面白いかもしれないね」 「メニュー画面で切り替えて表示させるってことですか?」 「そうそう。まあ、とりあえず今のマップが完成した後の話だけど」  舞の会社でデザイン案がある程度固まり、いよいよ司主導で開発作業が始まろうとしていた。  そのアプリ設計にあたって、ヒアリングも兼ねて観光協会の担当者と打ち合わせをすることになり、二人で町役場にある観光協会に行ってきたのだ。  観光協会としては現在の待宵町の様子だけでなく、過去の歴史も推していきたいと話していた。  路地街や古い街道、神社仏閣や川など昔の地形の名残はあちこちに存在する。このあたりを踏まえて、来年度の県の助成金に応募するのはどうかとも提案された。  最初のリリース時には間に合わないが、今後のアップデートに組み込むのはありだろうと、司は嬉々として構想を練っている。 「なんだか、随分大ごとになってきましたね」 「こんなつもりじゃなかったって?」 「そうですよ、最初は没になる前提だったのに」 「僕はあれ、結構いけるだろうと思ってたけどね」  司の隣を歩いていた舞は、一体どこに向かっているのだろうと首を傾げている。  本当なら会社に戻る予定だったのに、「行きたいところがある」と言って司は散歩を続行しているのだ。  行き先を尋ねても教えてくれないので、舞はそれ以上の追及を諦めている。特に急ぎの仕事もないし、寄り道をしたところで咎める人は誰もいない。  初めは商店街の中を歩いていた司だったが、途中から明らかに会社とは反対の方角を目指していた。北町通りと南町通りも過ぎ、気づけば境川が近づいていた。 「あの時、企画書なんて作らせてしまって良かったのかな」 「どういうことですか?」 「舞さん、辞めて出ていきたいって言ってたのに」  少し押し黙った舞は、淡い水色の空を見上げて笑った。 「いいんです。もう少し、この町で頑張ってみようと思います。形にしたいので」  境川沿いの道を、二人は東に向かって進んで行く。舞は境川にスマートフォンをかざすと、何気ない手つきで写真を撮った。 「舞さん、店のSNSにもよく載せてるよね。川の写真」 「なんか撮ってしまうんですよ。境川は特に」  舞自身、どうしてなのか理由がよくわからなかった。  しかし今になってみれば、自分はこの区分感に落ち着いていたのかもしれないと思った。目に見える形で存在するこの町の境界線の、内側にいるという事実に安心していたのだろう。 「お、見えてきたね」  彼の視線の先を追いかけた舞は、目の前に広がっている光景に息を飲んだ。  境川の岸辺に一面、鮮やかな黄色の波が連なるように続いていた。  川沿いから覗き込むと、広がっていたのは菜の花畑だった。時折吹いてくる風に揺れ、川の水面をほんのりと色付けている。菜の花を見下ろすように植えられた桜の木々も蕾が膨らみ、一部花を咲かせている枝もあった。 「すごいですね。こんなに咲いてるなんて知らなかった……」 「僕も國さんから聞いたんだ。この前の誕生日、ちゃんと用意できなかったし、かえって貰ってしまったから」 「えっ、そんなつもりじゃなかったのに。逆にすみません」  舞は自分の誕生日に、ハレマチ堂に行って新作の手帳を買っていた。それと一緒に店用のノートを買って、司に渡しただけのことだった。  司から貰ったのは天石堂のどら焼きセットだ。涼太の作ったマロンクリーム味が定番化していたこともあって、舞は素直に喜んでいた。 「いや、僕も見たかったんだ。去年はそんな余裕なかったし」 「それなら、良かったですけど」  舞は司に頷くと、眼下に広がる菜の花畑を眺めて微笑んだ。  待宵町に来てからもうすぐ五年が経つ。この景色を見るチャンスは今まで何度もあったのに、みすみす逃して来た過去の自分を少し残念に思っていた。  でも、これからも町にいるのであれば、境川沿いに咲く菜の花はまた見られるのだ。 「舞さんに聞きたいことがあったんだけど」 「なんでしょうか」 「町を出て行こうと思っていたなら、どうしてうちの店で働き始めたの?」  司を見上げると、彼は真剣な瞳を返して来た。思い返せば、司と初めて出会ったアルバイト面接の時に、理由をきちんと説明できていなかった。  しばらく言葉を探していた舞は、初めて週末文庫に入った時のことを思い出し、表情をふっと和らげた。 「あの時の私は、もちろん出て行きたい気持ちもあったんですけど……それと同じくらい、この町に残る理由を探していたんですよね」  待宵町に来ることを選んだのは、舞が自分自身で決めた初めての選択だった。  もしかしたら、自分は地に足がついた感覚を得られるかもしれない。境川を超えてこの町にやって来た時、舞は予感めいた期待を抱いていた。  だからこそ、この町を出て行こうと考えていた時は辛かったのだ。 「週末文庫に入った時、なんだか受け入れられたような感覚があったんです。ここにいていいんだって。……司さんと初めてお会いした時は、うまく言えなかったんですけど」  はたして、この説明で伝わったのだろうか。  再び司を見上げた舞は、彼が黙って頷いている姿にほっと息をついた。 「司さんは……これからどうするんですか。お店は、先代の遺言がわかるまで続けるって話でしたよね」  一筋の風がさっと吹き抜け、菜の花畑の表面を撫でるように揺らして、向こう岸へ通り過ぎて行く。  ゆらゆらと揺れ動く黄色い絨毯を、司は遠くを見るような目で眺めている。 「この前やった祖父の一周忌でさ、父親と久々にまともに話したんだ。病室で叱られたんだって。お前は息子を振り回したんだから、その責任は取れって」  司の父親に用意された遺言は、「司がいらないと言ったら店は処分、続けたいと言ったら維持しなさい」という端的な内容だったという。 「あれから、店のノートも全部読み返したんだけど……小さい頃、休みのたびに店に入り浸っていたみたいで。昔書いた文字が結構残ってたんだ。将来は代わりに返事を書くって息巻いてたのを、何となく思い出したよ。祖父がノートを遺してくれたのは、多分そういうことだったんだと思う」  司は静かに笑った後、両手を組んで大きく伸びをした。 「それに、最後に祖父と会った時のことも思い出したんだ」 「本当ですか?」 「なんだか不思議な話だよね。一つ思い出すと、次々に出てくるなんてさ。しかも、約束したのは僕じゃなくて祖父の方だったんだ」  常連客が皆帰り、店内に二人だけ残った時、司はカウンターの向こう側にいる先代にぼやいた。    ――もう、町に帰ってくる理由がなくなっちゃったよ、じいちゃん。  ――司は帰って来たいのか。  ――……よくわからない。    ブレンドコーヒーを淹れていた先代は、琥珀色の液体がすべてカップに落ちきった頃、司を見据えて答えた。    ――それなら、司が帰って来たくなった時のために理由を作っておこう。 「今考えれば、あれって店のことだったんだよね。何を一人で悩んでたんだろうって思うよ」 「でも、思い出せたんだから良かったんですよ」 「……そうかな」 「はい。先代も、きっと安心されていると思います」  きっぱりと言った舞に、司は「そっか」と嬉しそうに呟いた。 「だから、店は続けることにするよ。舞さんのおかげで判子も見つかったし……國さんから店名の由来も教えてもらったんだ」 「由来、ですか?」 「そう。常連客によく話してたんだって。週末になると、必ず木陰文庫に通っていて……」  舞が思わず聞き返すと、司は柔らかく微笑んだ。 「それがとてもいい休日だったから、週末文庫にしたんだって」  二人の頬に触れるように、穏やかな風が過ぎていく。  川沿いに広がる菜の花畑が一斉に動き始め、先々まで連なって行くように波を描いた。桜の木々も呼応するように枝を揺らし、境川の水面がその姿を映し出している。  淡い水色の空の下、暖かい春の光があたりを包み込むように満ちていた。
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