一話 刻まれたメニューボード

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   2    秋晴れが続いた日々が嘘のように、空は分厚い雲に覆われている。  出勤前に舞がつけていたテレビは、ちょうど帰る頃に雨が降り出すだろうと伝えていた。折りたたみ傘と防水パンプスの用意はあるが、職場の窓から見える薄暗い景色は、あまり気分のいいものではない。  待宵町印刷会社は、待宵町駅から北西に向かって七分ほど歩いた先にある。敷地内には三階建ての小さな本社ビルと印刷工場、そして創業当時に使っていた旧工場が並ぶ。  舞は本社の三階で働いている。事務系の部署が集約されるそのフロアで、彼女のデスクがあるのは総務エリアだが、その所属はすっかり形骸化していた。  彼女が目を通しているのは数枚の履歴書だ。人事の一端を担っているため、今日の午後にある中途採用の面接準備を進めている。  社長が変わってから、三十人を切っていた社員は四十人を超えた。  離職した元社員の復職制度を用意したことで、見知った顔も少しずつ戻って来ている。  社内の空気は今やのんびりしたものだ。 「清(せい)ちゃん、今日の面接って何時だったかしら」  営業事務の月吉加代(つきよしかよ)が声をかけて来る。  四十代半ばのベテランで、舞が入社した当時は直属の上司だった。三年前に介護で退職し、最近パートタイマーで復帰したばかりだ。 「二時半から四時です」 「良かった。それならまだ時間あるわね」  彼女が開けた箱には、どら焼きが十二個入っていた。  個包装されたパッケージの下から『天石堂(あまいしどう)』と刻印された表面が透けて見える。 「ここの餡子が好きなんだけどね、新作が出たっていうから買ってみたのよ。清ちゃんも一つどうかしら、好きなもの選んでみて」  種類によってパッケージの色が違う。  舞はマロンクリーム味と書かれた、淡い黄色の袋を手に取った。 「あんまり根詰めちゃだめよ。キリのいいところで休憩しなさい」 「……ありがとうございます」  彼女がいなくなった後、舞は履歴書を読みながら袋を開ける。  何気なく一口食べた後、思わぬ味に気付いてどら焼きを見つめた。  分厚い生地に挟まっているのはマロンクリームと生クリームだ。しかし断面をよく眺めてみると、もう一層何かが重なっている。生クリームと限りなく色は似ているものの、こちらは一トーン落ち着いた色だ。  パッケージを裏返した舞は、原材料を見て頷いた。 「そっか、白こし餡……」  裏には味について説明書きが記載されていた。  どうやら、白こし餡は隠し味としてあえて忍ばせているらしい。どら焼きといえば餡子のイメージが強いが、それを逆手に取った発想なのだろうか。  舞がどら焼きに感心していると、パソコンのデスクトップ画面に通知が表示された。社内SNSアプリをクリックした彼女は、現れた投稿画面に苦笑した。 「今日のランチはオムライスですか、社長」  雑談用のチャットスペースに、ふんわりと盛り付けられたオムライスの写真が上がっている。待宵町駅から二駅隣に新しくできた洋食屋で、最近社長が贔屓にしているのだ。 『木曜日限定メニュー! 卵も絶妙な焼き上がり。そして半月型がとても綺麗です』  彼は基本的には午前中に出社するが、姿を見せない時は大抵こうして寄り道している。  突然『娘とエクレア食べるから休みます』と投稿された日はさすがに驚いたものの、他の社員にも推奨しているので特に文句は出ない。  舞は社長の個人チャット宛に、今日のスケジュールを念押しで送った。人事経験者を対象とした最終面接だ。社長が同席しないことには話にならない。  とはいえ、どうせこの人のことだ。資料もとうに確認してあるのだろう。  雑談用のチャットスペースに戻った舞は、タイムラインを少しずつ遡っていく。  絶妙なバランスで積み上げられたパンケーキや、もはや崩すのがもったいない三種のベリータルトなど、写真映えするスイーツが次々と表示される。彼女は頬杖をつき、思わずぼやいた。 「メニュー、どうしよう……」  週末がすぐそこまで迫っている。  舞はここ数日、飛鳥からの宿題にずっと頭を悩ませていた。  いくらスクロールしたところで、現れる写真は当然プロの技ばかりだった。素人に再現できるとは思えない。しかも司の料理の腕は期待できないのだ。  当面は舞一人で頑張れそうで、かつそのうち司にも手が届きそうなメニュー。  そのひのきぶん、たいせつなえいよう、ふわふわであったかいもの、どようびのしあわせ。  まるで呪文のように頭の中をぐるぐる回っている。今まで使ったことのない思考回路に、舞の脳みそはパンクしそうになる。 「――いけない、準備しなきゃ」  はっと我に返った舞は、アプリ画面を閉じた。  メニューの件は終業後だ。どら焼きを噛み締めながら、舞は再び履歴書を読み始めた。    *  その週の土曜日、店に行った舞を出迎えたのはミキサー音だった。  カウンターの中では、エプロン姿の飛鳥が冷凍いちごをミキサーに放り込んでいる。牛乳を注いで再びミキサー音が鳴り響いたところで、彼は顔を上げた。 「よし、こんなもんかな。おっ、マイちゃんおはよう」 「佐藤さん、早いですね」 「今日は司が遅れるって言うからさ。それより、ちょっとこれ飲んでみてよ。試作してみたんだ」  飛鳥はグラスを取り出し、ミルキーピンク色の液体を注いでいく。  カウンター席に座った舞は、グラスを手にとって表面を眺めた。先週の掃除で見つけたカットグラスだ。  単体で見た時はよくわからなかったが、色のはっきりしたものが入ったことでガラスの凹凸が浮かび上がっている。思っていたより繊細な彫り込みが施されていたらしい。レース編みを思わせる綺麗な模様だった。 「ミックスジュース、ですか?」 「そう! ミキサー一つでできるから簡単だし、その時々で旬のフルーツを入れれば『そのひのきぶん』って感じがしていいかなって」  一口飲むと、柑橘系の爽やかな香りが前面に現れた。目を見張った舞に、飛鳥はにかっと笑う。 「どう? 想像した味と違ったでしょ。みかんとレモンも入ってるんだよ」 「ええ……てっきり、いちごミルクみたいな感じなのかと」 「そうそう、このいちごがまたいい色出すんだよ。これはアンズちゃんに教えて貰った技なんだけどね」 「豊島のジャム屋さんでしたっけ」 「うん。彼女、もとはいちご農家なんだ。でもいちごの旬ってすぐに終わっちゃうから、それ以外の時期でもいちごを美味しく食べて欲しくてジャム屋を始めたって言ってた」  豊島は日当たりや水はけがよく、天候が比較的安定している。果樹を栽培するには適した土地だという。  島の風土がすっかり気に入った飛鳥は、当初の予定を大幅に延ばしてジャムの作り方を各種教わってきたらしい。瀬戸内海での出会いをひとしきり語った後、彼は自分のグラスを傾けた。 「今日選んだフルーツは全部豊島の特産品でさ、特にいちごとみかんはフェリーの柄になるくらい力を入れてるんだって」 「じゃあ、この組み合わせも島の方から?」 「そうなんだけど、これはアンズちゃんからレシピを聞いただけなんだ。収穫時期が違うから、全部生のフルーツを使おうと思うとほんの一瞬しか飲めないしね。冷凍いちごはアンズちゃんの信条に反するんだって」  島で過ごした時間を話す飛鳥は表情豊かで、彼が旅を選ぶ理由が舞にもなんとなく伝わってきた。店を持たないパティシエなんて変わっていると思ったが、きっと仕事にいい影響を与えているのだろう。 「マイちゃんは、メニュー何か思いついた?」 「すみません、一つだけなんです。苦し紛れな気もしてて」 「大丈夫だよ、司が来たらその案を含めて話し合ってみよう。三人寄ればなんとかっていうし」  飛鳥は新しいグラスを出し、何気ない調子で言った。 「マイちゃんが来たのって先月からなんだっけ。この店、どんな感じ? お客さん入ってるのかな」 「常連の方がお一人、よく来てくださっています。たまに食器を買いにいらっしゃる方もいますね。特に宣伝もしていないのに、一体どこでここを見つけたのか」 「ホームページもないんだよね」  舞は小さく頷いた。これまで何度か話題には上ったものの、載せるべき情報が定まらず保留のままだ。司自身、この店の方向性について決めかねているようだった。 「佐藤さんは、開店の時って町にいらっしゃったんですか」 「あー……うん、そうだね」  先週店に現れた時、飛鳥は大きなバックパックを背負ったままだった。  荷物を置く間もなく立ち寄ったということは、きっと心配していたのだろう。  舞は単純にそう考えて尋ねただけだったが、彼は何故かすぐには答えず、少し黙り込んだ後に口を開いた。 「ちょうど春先だったかな。珍しく連絡してきたと思ったら、ここを継ぐことにしたって内容だったんだ。あの時、町を出る直前だったから大して手伝えなくてさ。とりあえず、ホットドッグとコーヒーだけ急いで練習させたんだけど」 「佐藤さんの案だったんですか」 「司がソーセージ焼くと黒焦げになるから心配だったんだ。あの調子じゃ店がすぐ傾くんじゃないかと思って……ここが続いているのを見るまで、実はヒヤヒヤしてた」 「……トースターでも焦げたんですか」  ミキサーに残っていたミックスジュースが、すべてグラスに注がれる。  飛鳥の司を案じる表情に、嘘はないと思う。  しかし舞には、飛鳥の行動がどうもちぐはぐに見えた。  仕事とはいえ、結果的に半年以上も司を放っておいている。その間、一度も町に帰ってこなかったのはどうしてなのだろう。 「そ。だからマイちゃんが来てくれて良かったよ。これでこの店の寿命は延びたね」  飛鳥が冗談めかして肩をすくめた時、店の扉が開いた。 「ごめん清宮さん、すっかり待たせちゃって」 「遅いぞ司。一体何やってたんだ」 「仕事だって連絡しただろ、明け方急にメールが来たから焦ったよ。……そのグラス、先週見つけたやつじゃないか?」 「ちょうど良さそうだったから借りた。ほら、新メニューの試作品だ。どうせ朝食もまだなんだろう、早く飲んで感想を教えなさい。ただし称賛に限る」  演技めいた仕草で飛鳥がカウンターに置いたミックスジュースに、司は目を瞬かせた。
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