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それから二週間の試作期間を経て、十一月最後の週末に新メニューの提供が始まった。
店で準備できる時間は休日に限られていたため、司の料理特訓は間に合わなかったが、ミックスジュースと作り置きの盛り合わせは一人で用意できるようになった。
國彦が舞の作ったチラシを寺ヨガで配布し、飛鳥も自身のウェブサイトで宣伝を打った。
舞はそれで本当に客が来るのか半信半疑だったものの、蓋を開けてみれば、いつもは誰もいない丸テーブル席が三つとも埋まっていた。
近所に住む高齢者や、ブレザーを着た高校生カップル、そして飛鳥目当てにやって来た女性層など、普段なら見かけない顔ぶれが思い思いの時を過ごしている。
「飛鳥ちゃん、久しぶりね~。今回はいつまでいるの?」
「旅は春まで休もうかと思ってます、寒くなって来ましたしね。なので、ハナちゃんから何かご用命があればいつでも駆けつけますよ」
「まあまあ、相変わらずお上手なんだから。なら、早速仕事をお願いしようかしら。うちの教室でクリスマスケーキの講座をやりたいと思ってるの」
「いいですね、是非協力させてくださいよ」
テーブル席に座った女性三人組と、飛鳥は和気藹々と語らっている。
彼に「ハナちゃん」と呼ばれた女性は五十代後半で、町で料理教室を開いているらしい。同じテーブルを囲む四十代の女性二人はおそらく教室の生徒だ。
カウンターの中で彼らの話を聞いていた舞は、隣でミックスジュースの用意をしていた司にそっと尋ねた。
「佐藤さんって……もしかして女性は全員ちゃん付けなんですか」
「節操ないからやめろって言ってるんだけど、一部の層にはウケがいいみたいなんだよね」
初対面で突然「マイちゃん」と呼ばれて、実のところ面食らっていた。ここまで飛鳥の距離感を測りかねていたが、人となりがようやく腑に落ちる。
舞の手元ではフレンチトーストが程よく焼けつつある。斜めに切った少し分厚めの食パンは、飛鳥が昨日から一晩卵液に浸しておいたものだ。
弱火で五分、じわじわと両面に焦げ目をつけた後、プレートに盛り付けて粉砂糖を振りかける。小さなガラスカップにいちごとみかんのジャムを添えたところへ、飛鳥が取りに戻って来た。
「フレンチトーストとミックスジュース二つ、二番にお願いします」
「お、いい焼き色だね。上出来」
飛鳥はトレイを持って高校生が座るテーブルに向かう。フレンチトーストを中央に、ミックスジュースを二人の前にそれぞれ置いた後、そこでも楽しそうに話し始めた。
「佐藤さん、本当に年齢問わないんですね」
「そういう奴なんだよ。誰に対してもすぐ懐に入り込んでいくというか。だから仕事が続くんだろうけど」
飛鳥を眺めていた舞は、彼の様子がいつもと違うことに気づいた。
女子高生の方とは旧知の仲なのか、会話する二人の空気感が穏やかに映った。彼女が笑うたび、肩先で切り揃えられた細い髪がさらさらと揺れている。
「あの二人、以前からのお知り合いですか」
「実家のお隣さんじゃないかな。昔から家同士で交流があって、妹みたいな幼なじみがいるって聞いたことがある」
「幼なじみですか。いいですね」
フライパンを洗いながら、舞は目を細める。
「清宮さんにはいないの?」
「父親が転勤族だったので」
「すみませーん、ちょっといいかしら」
顔を上げると、カウンター前の部屋から老婦人がこちらを見つめている。
「僕が行くよ」
開かずの間だった部屋も、今日から販売スペースとしてオープンした。
大幅な修繕が必要な家具もあったはずだが、司がいつの間にか修繕していたらしい。ボロボロだった椅子は座面が張り替えられ、木製のレジ棚も傷跡が目立たなくなっていた。
老婦人が手に取っているのは、カトラリーセットと人形だ。
カトラリーは銀色に磨き上げられ、持ち手の装飾に残るくすみが陰影を伴っている。
人形の方はすべて着色され、鮮やかなフォレストグリーンの服と丸い黒目が描かれていた。まるで森に住む小人のような風合いだ。
彼は手先が器用だったのか。老婦人と談笑する司を見遣った後、皿を洗う舞の手が止まった。
人形を見つけた時、塗装がすっかり取れていて元の姿はわからなかったはずだ。なのに、彼はどうしてあの色を選んだのだろう。
*
土曜、日曜と週末はゆるやかに過ぎていく。
丸テーブル席では常に誰かが楽しそうに語らい、カウンター席も時折人が座っていた。喫茶の利用客が食器を買っていくことも多く、いつにも増して売り上げがあった。
飛鳥が買い出しに行った後、お昼時に集中していた客足は波が引くように落ち着いた。誰もいなくなった店内で、舞はテーブルを磨き、窓際の壁にかけたメニューボードも拭き始める。
店の中でも一際目を引いたようで、彫り込みが可愛いと評判だった。外からよく見える位置だったので、このメニューボードが気になって立ち寄ったという人もいた。
「拭いてくれたんだね。ありがとう」
部屋から出て来た司に、舞は苦笑した。
「ここで使うことにして正解でしたね。早まって材木店で削らなくて良かったです」
「それも案としては良かったけどね。物によっては採用したと思うし」
朗らかに言った司の手には、あの人形が一つだけ握られていた。
「数年前まで、近所に洋食屋さんがあったんだ。森の洋食店っていう……僕も子どもの頃に行ったきりで、思い出すのに時間がかかったけど、このメニューボードに見覚えがあって」
「じゃあ、人形もその洋食屋さんに?」
彼は頷くと、カウンターの隅に人形を置く。
どうやら最初に修繕したのか、服の着色がところどころムラになり、目の形は楕円がかっている。だが、かえって味があるようにも見えるのが舞には不思議だった。
「カトラリーと人形を買ったおばあさん、ずっと通ってたんだって。メニューボードと、お店をやっていた家族のことも色々教えてくれた」
店主の森野夫妻は、待宵町では有名なおしどり夫婦だった。
若くして二人で洋食屋を始めた時からずっと、店は町の人の食堂として機能していた。
一人娘が生まれて四年ほど過ぎた頃、店にあのメニューボードが現れた。保育園で書いた落書きを元に、四つのメニューを彫り込んだのだという。
そのひのきぶんは前菜のセット。日によって中身が変わる理由を尋ねた娘は、父親から「その日の気分だ」と返されたのを覚えていたらしい。
たいせつなえいようは緑黄色野菜のサラダ。人参嫌いだった娘に「大切な栄養だから」と母親がよく言い聞かせていた。
ふわふわでおいしいものは、娘の大好きなハンバーグ。中学生になった彼女は家庭科の授業で作ってみたが、お店の柔らかさが再現できないと嘆いていた。
どようびのしあわせはパンケーキ。これは土曜日限定のメニューだった。成人して東京へ出て行った娘は、帰省のたび常連客に混じって頼んでいた。
彼女が考えた四つのメニュー名は評判で、閉店までずっと、洋食屋の看板メニューとして使われ続けていた。
「どうして、閉店してしまったんですか」
「奥さんが認知症になって、とりあえず一時休店にしたんだって。でも、結局旦那さんも体調が悪くなって、結婚した娘さんのところへ引っ越して行った。……二階を掃除してたら祖父の書付を見つけてさ、引き取った経緯がメモしてあった」
「先代の?」
司はエプロンのポケットから小さな手帳を取り出した。
うぐいす色のカバーの間に、わずかに黄味がかった紙が覗いている。紐の栞が挟まっていたのは、終わりに近いページだった。
――娘夫婦の家には孫もいる。自分の荷物は最小限にしたい。
店にあった家具の大半は処分できたが、開店した時に初めて買ったカトラリーと、娘からもらった人形のセット、メニューボードは捨てられなかった。
できることなら、森の洋食店を覚えている人に譲って欲しい。
「おばあさんの話だと、この小人は七人いたんだって。店には五人しかいなかったけど」
ドイツ旅行から帰ってきた娘の土産なのだと、森野夫妻が嬉しそうに話していたらしい。各テーブルに一つずつ、大切に飾ってあったという。
夫妻が一つずつ持って行ったのだろうか。カウンターに座る小人を見た舞に、司はぽつりと呟いた。
「今となっては推測でしかないけど、祖父は多分、森野さんの願いを叶えようとしたんだと思う」
「――」
舞の脳裏に、古家具がうず高く積まれた薄暗い部屋の景色がよぎる。そうか、と腑に落ちた。
あれはガラクタの山ではない。すべて思い出の山だ。
先代は、古家具の抱える思い出ごと引き取っていたのだ。
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