一話 刻まれたメニューボード

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 飛鳥が戻ってきた後、また数組の客がやって来た。人々の顔ぶれが変わるうちに、気付けば太陽の位置は傾き、窓から差し込む光が黄金色に染まっている。  店内に残っているのは、カウンター席に座る國彦だけだった。いつものブレンドコーヒーを飲みながら、満足げに頷いている。 「盛況だったねえ。これで、この店が営業していると伝わっただろう」  棚の空いた箇所にカップを追加していた舞は、振り返って微笑んだ。 「張間さんのおかげです。お寺でチラシを見たという方が、何人も来てくださってました」 「俺も宣伝したんだけどなー」 「佐藤さんはご自分の営業もしていたでしょう」 「バレてたか」  カウンターの中で水回りを掃除していた飛鳥は、いたずらに気付かれた子供のように舌を出す。  舞は商品を並べ終わると、販売スペースをちらりと覗く。  さっきからずっと、司が机に向かってペンを走らせているのだ。  真剣な横顔に、時折迷いの色が浮かんでいる。売り上げの記録でもつけているのだろうか。声をかけるのを躊躇ったその時、店の扉が開いた。 「いらっしゃいま……」 「えー、ここってまだやってたの? 閉店したんじゃなかったんだ」  戸口に立っていたのは派手なギャルだった。  金のメッシュが入った茶髪のロングヘアに小麦色の肌。丈の短いニットと黒レザーのミニスカートが、足の長さを強調している。つけまつげとキャメルのカラコンに縁取られた眼光は鋭く、こっくりした赤リップと太眉が顔のパーツを際立たせていた。 「おお、(みやび)ちゃんじゃないか。久しぶりだねえ」 「ひこりんじゃん! えー超久しぶり、元気にしてた?」 「もちろんだよ。ほら、ここに座りなさい。昨日から若者が好きそうなメニューができたんだよ」  國彦の隣に座った雅は、彼に促されてメニューボードを見る。 「ミックスジュースなんてどうかね。フレンチトーストもある」 「じゃあその二つにする。ひこりんもなんか一緒に食べようよ」 「そうだねえ。なら、オムライスをもらおうか」  しばらく言葉を失っていた舞は國彦の注文で我に返り、急いでカウンターに入った。ミックスジュースとフレンチトーストは飛鳥に任せ、オムライスの準備に取り掛かった。  フライパンを温めて油を引き、既にみじん切りにしてあった玉ねぎを入れる。  色が少しずつ透き通って来たところで、小さく切った鶏肉も合わせて炒めていく。塩胡椒で味を整えてからご飯を追加し、具材が均等に混ざった頃にケチャップをかけると、全体がさっと鮮やかな赤に染まる。 「そうだったんだー、全然知らなかった。せとっちの孫かー」  二人が用意をする間、國彦は雅に新メニューが始まった経緯を説明していた。先代から孫の司に代替わりしてから半年近くが経ったことを知った雅は、驚いたように声をあげている。 「雅ちゃんが最後に来たのはいつだったかね」 「一年以上前かな。あの時はもう『休業中』の張り紙があって。独立準備で鬼忙しかった時にせとっちが亡くなったって聞いてさ。ここがどうなったか、気にはなってたんだ」  卵を二つ割り、器で軽く溶いていく。  牛乳とマヨネーズを加えた後、熱してあった小さいフライパンにバターを一かけ入れた。  あたりにはバターの溶ける香りが漂う。まだ少し形が残っている間に火を弱め、卵液を流し込んだ。ジュッと焼ける音を聞いた後、菜箸で端の方からかき混ぜながらフライパンを前後に揺らす。  手早く形をまとめ、紺の縁取りが施された白い深皿にオムレツを乗せると、同じ頃に炒め終わったチキンライスで包み込むように盛り付けた。  ちぎったサニーレタスとミニトマトを添え、カウンターに出そうと顔を上げたところで、舞はつけまつげ越しの瞳がじっと見つめていることに気づく。 「あの、何か……?」 「すごーい、超手際いいんだね。きっとせとっちも見たらびっくりするよ」  素直な賞賛の声に、舞は目を瞬かせる。 「あたし、勝田雅(かつたみやび)。ネイリストやってるんだ」  長い前髪をかきあげた指先は、すべて違う柄のネイルで彩られている。ブラウンベージュ系をベースに、シルバーのリーフや大理石風のアート、トルコ石に似たストーンが散りばめられていた。 「清宮舞です。先月からアルバイトとして……」 「あーその堅苦しい感じナシ、うちらきっと同世代でしょ。あたし二十八、ハロウィン生まれのサソリ座の女だから覚えといて。マイマイは?」 「つ、次の三月で二十七……」  雅流で言うと、舞はひな祭り生まれの魚座だ。  あっという間についたあだ名にもたじろいだが、年の差がほぼないことにも驚いた。見た目がギャルのせいか年齢不詳になっている。雅のまとう空気感には、妙な若々しさと貫禄が同居していた。  カウンターには、飛鳥が用意したミックスジュースとフレンチトーストも並ぶ。國彦がチキンライスにスプーンを割り入れると、茜色の層から明るい満月色が顔を出し、雅が興味津々といった様子で覗き込んでいた。 「逆になってるんだ、変わってるー」 「こうすれば、卵の形を気にしなくていいので」 「たしかにー! あの外側、ハードル高いもんね」  雅は断面図が見えているうちに、すかさずスマートフォンをかざして写真を撮った。その流れでフレンチトーストも写真に収めた後、ミックスジュースを見つめて言った。 「このグラス、カワイイね。こんなのあったっけ?」 「先代が引き取ったカットグラスなんだよ。本当は売り物なんだけど、せっかくだからと思って」 「それ超いいじゃん。だったらー」  雅は店内を軽く見回した後、グラスをとって窓側に向かった。丸テーブルにグラスを置くと、窓から差し込む西日が表面のレース模様を穏やかに照らす。  角度を見計らって写真を撮った雅は、画面を見て満足げに頷いた。 「こんな感じで写真撮ってSNSにアップしなよ。使ってるところが想像できるのって、お客さんも絶対手に取りやすいと思うし」  雅に差し出されたスマートフォンには、どこかノスタルジックな雰囲気が漂う光が映し出されている。特に加工を施した様子もなかった。  これは撮り慣れた人の写真だ、と舞は目を見開く。 「せとっちはSNSとか疎そうだったから何も言わなかったけど、マイマイならその辺わかるでしょ? お店のアカウントとってマメに発信して、新規顧客を獲得しなきゃ。この店のアンティークな感じ、結構好きな人いるんじゃないかってずっと思ってたんだよねー」 「あ、いわゆる()えってやつですか」 「映えとはなんだね?」 「ひこりん聞いたことない? ちょっと前に流行った言葉で、まー写真映りがいいってことなんだけど、SNSではね……」  ラフな調子で説明しているが、内容はいたってまともだった。  雅がこの店に通っていたのは、ネイルデザインのインスピレーションを得るためだったらしい。店の棚は展示スペースとしても貸し出され、近隣に住むハンドメイド作家やデザイナーが作品を販売していたという。  あの架空地図の展示も、その一環だったのだろうか。 「えーやだもー美味しいじゃん。これからフレンチトーストはここに食べに来よ。あっしゅん天才ー」 「でしょ? 食パンはとものパンで仕入れて来たからね、素材が他とは違うよ」 「納得! あそこのパンはマジ神レベル」  席に戻った雅は、國彦や飛鳥と話しながらフレンチトーストに手をつけていた。飛鳥と雅はノリが近いのか、早々に意気投合している。  さっきの話を考えながら舞がフライパンを洗っていると、司が姿を現した。 「ああ、いらっしゃいま……」 「うわー、本当に孫なんだ。目元がせとっちに激似」  振り返った雅に、司の口元が「せ」の形のまま止まる。 「司くん、雅ちゃんは耕三さんがいた時の常連客だったんだよ」 「びっくりした、せとっちって祖父のことですか。生前は祖父がお世話になりまして、ありがとうございました。孫の橋本司です」 「なんだ、名字違うんだ。じゃあ他のあだ名にしなきゃ。ハッシーかな」 「同じだったら何と呼ぶつもりだったんだね」 「せとっちジュニア」  そのあだ名は想像できない。國彦と飛鳥は「それはいい!」と笑っているが、なんと反応したものか困った様子の司に舞は同情する。 「……ハッシー、そのノート」  司が持っていたのは透き通った青のノートだった。  和紙で作られたカバーの色合いは、まるで澄んだ湖のように見えた。水面が揺れ、光が乱反射する色合いを閉じ込めたような繊細な作りだ。  表紙の隅に一枚貼られた四角い紙には、『待宵町週末文庫』と黒印が押されている。  そういえば、昨日から彼はすべての来店客に必ずノートを手渡していた。舞がその姿を思い出した時、司は目を細めた。 「祖父の書斎から見つけたんです。お客さんに一言書いてもらってたんですよね」 「そうそう! えー残ってたんだ、ちょっと貸して」  ノートを受け取った雅は、迷わず中盤あたりのページをめくる。    せとっちに色々相談に乗ってもらって、超スッキリした。ちょっと不安だけど、やっぱり独立する感じでこれから動いてみようと思う!  ――あなたはもう立派な職人だ。それは、ずっと話を聞いて来た私が保証するよ。    丸みを帯びた字の隣に、少し斜めに崩した字が添えられている。万年筆で書いたのか、紙の上でかすかに黒いインクが滲んでいた。 「せとっち、こんなこと書いてたんだ」  雅はどこか寂しそうに笑うと、後ろに向かってページをめくる。 「……ハッシー、字の感じもせとっちと似てるんだね。なんかウケるー」 「え、そうですか?」    賑わってたのでなんとなく入ったんですけど、こんなお店あったんですね。みかんジャムが美味しかったです。  ――ありがとうございます。これからも、賑わいのある場所になるように頑張ります。  ヨガ仲間に誘われて来ました。お弁当のおかずがネタ切れだったので、レシピが増えて良かったです。たいせつなえいよう、今度作ってみます。  ――成長期のお子さんにもぴったりだと思います。日替わりメニューなので、困ったらまた来てください。    ノートには、誰と来たか、何を食べたか、この後どこへ行くのかなど様々なコメントが書かれていた。レシピを尋ねて来た客は舞にも覚えがある。ふくよかで温和な雰囲気の女性だった。 「そうだよ。返事の感じもなんか近いし」 「あー。内容に困った時は、祖父の返事を見返して参考にしたんです。なるべく同じことは書かないようにしたんですけど」 「どれどれ。……ふむ、よく書けているじゃないか。せとっちジュニアを名乗ってもいいかもしれん」 「いや、それはちょっと……」 「俺にも見せてよ。お、ジャムの感想が結構来てる! みかん派が多いのか」  カウンターを出て行った飛鳥は、司の隣で嬉しそうにノートを覗き込む。  皆に囲まれて話す司の柔らかい表情に、舞は胸をなでおろす。  メニューボードを見つけてから、司は毎週必ず店に来ていたが、雰囲気の端々に疲れがにじんでいた。平日の疲労が共感できる分、週末を費やしてまで店を維持しようとする動機が何なのか、舞はずっとわからなかった。  しかし、先代が残したノートに向かう司の姿を思い出し、舞はやっと腑に落ちる。  きっと司は、週末を使って先代の作った時間を取り戻そうとしているのだ。  司にとっての指針はそこにあるのだろう。店主としては少し頼りないかもしれないが、それでも彼は間違いなく、週末文庫の店主になろうとしている。 「……」  目の前で続いている賑やかなやり取りに微笑むと、舞はカウンターの中で一人、手元の洗い物へ視線をそらす。  夕暮れの日差しが、店内を暖かく照らしている。  流しに置いてあった洗い物をすべて済ませ、ちょうど水を止めたタイミングだった。 「清宮さん、片付けありがとう。良かったらこっち座らない? これからコーヒー淹れようと思うんだ」  声をかけられた舞は、司がカウンター越しに向けてきた優しい瞳に、一瞬息を飲んだ。 「どうかした?」 「いえ、なんでもないです。いただきます」  舞はタオルで濡れた手を拭き、カウンターから出る。飛鳥に促されて席に座ると、隣にいた雅にいきなり手を掴まれた。 「マイマイ、指先超綺麗じゃん。ネイルとかしないの?」 「そうですね、最後に塗ったのは三年くらい前……」 「なにそれマジでもったいない! そうだ、今度うちのネイルモデルやってよ。マイマイの指に似合うデザインって何かなー。あっしゅんどう思う?」 「そうだなー」  入れ替わりでカウンターに入った司は、コーヒーの用意を進めていた。和気藹々とした輪に放り込まれて舞が戸惑っている間に、穏やかな香りが漂ってくる。  週末文庫で使っている豆は、先代が懇意にしていた豆専門店から同じブレンドを仕入れている。中煎りで止めているので苦味がほとんどなく、少し酸味を含んだ爽やかな味だ。 「お待たせしました、ブレンドコーヒーです」  ここに来るまでコーヒーの違いがわからなかった舞も、豆の煎り具合でどこまで風味が変わるのか感覚を掴みつつある。普段家で飲んでいるインスタントは必ずミルクを入れていたが、週末文庫のブレンドはブラックで飲んでも口当たりが優しい。 「どうかな」  カウンターの向こうにいる司の表情は、さっき目が合った時と何も変わらない。  彼にしてみれば別に他意はなかったのだろう。  だがあの時、舞は内心を見透かされたのではないかと思った。カウンターを隔ててわずかに覚えた疎外感のようなものが、司の瞳に映ってしまった気がしたのだ。 「……美味しいです、ありがとうございます」 「良かった」  司がカウンターに立つ姿は今まで何度も目にしているが、舞は目元を細めて笑う彼を見て、自分がほっと落ち着いたことに気づいた。  そして、彼女が今まで生きてきた中で、そんな感覚を抱いたのはこれが初めてのことだった。
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