二話 空っぽのガラス瓶、それも沢山

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   *  しばらく晴れ間が続いていたが、今日は朝からずっと雨が降っていた。  水滴がついた職場のガラス窓は、内側との気温差で白く曇っている。ぼやけて見える雨の筋をデスクから眺めていた舞は、近づいて来る加代に顔を上げた。 「今日は特に冷えるわね~、帰ったらコタツ出さなくっちゃ。清ちゃんのマンションは寒くない?」 「リビングが少し寒いんですよね。そろそろホットカーペット敷こうと思ってます」 「それがいいわ、なんと言っても女性は冷えが大敵だから。湯たんぽも結構効くわよ」  加代は持っていた菓子箱を開け、笑顔で差し出した。 「はい、これ琥珀糖。柚子と抹茶の二種類あるから、好きな方選んで」  正方形の箱いっぱいに、天然石によく似た白と緑の和菓子が、格子状に敷き詰められていた。よく見ると白い方は透け感があり、抹茶の緑を受けてグリーンの影が映っている。 「綺麗なお菓子ですね」 「でしょう? 本当はカステラを買うつもりだったんだけど、こっちに惹かれちゃったのよ。一口サイズでつまみやすいかなと思って」  舞は柚子の琥珀糖を一つ手に取った。  箱に入っているときは白く見えたが、単体になってみると淡い黄みを帯びている。四角くカットされた表面には、寒天が固まる時にできた跡が残っていた。  一口で頬張ってみると、シャリシャリとした不思議な食感の後に、柚子の香りと共に柔らかい寒天が広がった。 「どうかしら」 「琥珀糖って初めて食べたんですけど、なんだか癖になる歯ごたえですね」 「あらやだ、食レポみたいなこと言って」  加代は笑いながら、「気に入ったなら抹茶の方も」と箱を差し出した。 「なになに、楽しそうに話してるね」 「……社長」  がたいのいい爽やかなサーファー然とした男性、向佐陽一(むかさよういち)は、冬だというのに薄手のジャケット一枚で涼しげな顔をしていた。趣味の筋トレで日々鍛えている一方、カナヅチで全く泳げないらしい。 「今日は出社日でしたっけ」 「いや、近くに来たから寄ってみた。急に打ち合わせが入ってさ、スケジュールが変更になりそうなんだ。あとで予定共有させて」 「陽一君も琥珀糖食べる? 柚子と抹茶があるんだけど」 「へえーこれは綺麗ですね。どこのお店ですか?」 「天石堂で買って来たのよ」  加代は陽一が学生だった頃から知っているようで、気さくに下の名前で呼んでいる。舞も彼からそれとなく社長呼びの撤廃を促されているが、タイミングを逃したまま半年以上が過ぎていた。  パソコンのデスクトップ上に、アプリの通知が表示される。  舞が社内SNS画面を開くと、大学広報部門のチャンネルに新たな投稿が追加されていた。  県内にキャンパスを持つ私立大学は、この印刷会社にとって主要な取引先だ。受験生向けに発行する大学案内や卒業生のインタビュー集など、多くの仕事を請け負っている。取り扱う情報量も多いため、社で一番人員が投入されている部門だった。  投稿者は「町田明(まちだあきら)」、去年から育休に入っている男性デザイナーだ。  一度育休の延長を挟んでいるが、家で仕事ができるようになったと相談があり、今年からリモートワークで紙面デザインを頼んでいる。  少しずつ家庭が落ち着いてきたようで、年明けから段階的に復職することになっていた。  明が作る紙面はシンプルで見やすい。  余白が効果的に使われる一方、情報は過不足なく揃っている。クライアントからの無茶な要望も現実的な線で着地させられるので、難しい紙面案は大抵彼に任されていた。  明がいなくなったばかりの頃、他のデザイナー達はかなり苦戦していたが、彼が長期間仕事を離れたことでスキルの穴埋めが図られたのだろう。当初上がっていた悲鳴は、今となってはほとんど聞こえなくなっている。 「お、さすが町田さんだ。相変わらずセンスがいい」  陽一は舞の開いた画面を覗き込むと、嬉しそうに頷いた。 「彼が復帰したら、何か新しいプロジェクトを始めるのもいいな。受注仕事じゃなくて、うちが独自に作るコンテンツっていうか」  思わぬ言葉に、舞は顔を上げた。 「ここの仕事っていつも受け身だろう? 地域の信頼を得ている証でもあるけど、これからは自分発信のコンテンツも出していきたいよね」 「陽一君、それは紙媒体で?」 「もちろん、紙はうちの強みなのでその線もありです。でも、他の形も挑戦してみる価値があるんじゃないかと思うんですよ。ウェブとか動画とか、あとはアプリ開発とか。手軽にアクセスしてもらえるものがいいですね」  他の形、と聞いて舞が思い出したのは、数年前まで社内に存在したステーショナリー部門だ。  待宵町の特産品である和紙を使った手帳やノート、レターセットなどオリジナル製品を取り扱っていたが、舞が入社した直後に部門が廃止されていた。  陽一と加代の会話は、舞の頭上で続いている。  しばらく二人のやり取りを聞いていた舞は、開きかけた口をつぐみ、画面に視線を戻す。  ――あと少しだから。  明が正式に復帰するまで、指折り数えていた日数は残りわずかだ。あんなに遠いと思っていた先が、気づけばすぐそこまで近づいていた。  あと少し。あと少しで職場に明が戻ってくる。  それを見届けた後に、舞は会社を辞めようと思っている。
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