私が会社をやめた理由

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私が会社をやめた理由

 星野(ほしの) (ひかる)は27歳女性で宇宙人である。  彼女の前職は大手貿易会社の総務課であり、しかしながら職場環境はお世辞にも良かったとは言い難かった。  セクシャルあるいはパワー、モラルのハラスメントが横行する職場は大手ゆえの自浄作用のなさなのか、自己批判もないままそれが当たり前とされてきたのだ。  そんな仕事に疲れ切っていた星野はある日、いつものように疲れ切った体をベッドに運ぶことだけを考えて家路を歩いていた。  以前はさんざん時間をつぎ込んだ一人称視点シューティングゲームも最近はすっかりご無沙汰だ、とかそんなとりとめもないことを考えていると……。 「こんばんは。大変お疲れのようですね」  星野は突然声をかけられた。  その声に振り返るとそこにいたのは……宇宙服を着た大男……いや全身を覆う宇宙服は金色のバイザーで顔すら見えず、正直性別を推し量ることは外見からは不可能だったし、聞こえた声はどこか奇妙な響きがありまるで人間ではないようだったが、とにかくその体格から男性ではないかと推測した。  星野は思わず悲鳴をあげようとしたが、最近はカラオケにも行っていない上、職場で人と話す機会も殆どなかったので声の出し方を思い出すまでにしばらくかかった。  そのため声の出し方を思い出すために数回の咳払いをしているうちにすっかり冷静になってしまっていたのだ。  それゆえ星野の口から出た声は悲鳴ではなく 「はいそうです。大変お疲れです。だから早く家に帰りたいのであなたとお話している時間はありません」 だった。  それを聞いた宇宙服の大男(仮)は少し慌てて言った。 「こんな夜道で女性に声をかけるのは大変失礼とは思ったのですが、ぜひ聞いていただきたいお話があるのです」  もっと気を配るべきところが他にあると星野は思ったが、下手に突っ込んだり無視して付きまとわれるのも厄介だと考え話だけ聞くことにした。 「お話ってなんでしょう?」 「はい実は…」  宇宙服の大男は一呼吸間をおいて続ける。 「あなた、宇宙人になりませんか?」  これがつい2週間前の話である。  ほんの数分間の説明と「詳しくはこちらをお読みください」と手渡されたパンフレットによると、つまりはこういうことだった。  20世紀、各国が宇宙への関心を深めていく中、様々な形での人類以外の知性を持つ生物の探索が始められた。  宇宙のどこかにいるに違いない、人類の友となるべき存在。  その探索は様々に形を変え、連綿と続けられていく。  やがてときは過ぎ、21世紀初頭。  未だ人類は光の速度を超えて宇宙へ出ることができずにいるなか、途方も無い時間をかけて星の海を渡る無人探査機に載せられた地球外知的生命体へのメッセージに応えるものもいない。  宇宙開発はその過程でいくばくかの技術革新はもたらしたものの、そうした新技術も一般に普及してしまえばその由来も忘れ去られ、人々は宇宙への関心を急速に失っていった。  このままでは宇宙開発予算は削られる一方だ。  そこで各国の宇宙開発関連省庁は知恵となけなしの予算を出し合って一つのプロジェクトを秘密裏に推し進めることを計画した。  それが「プロジェクト ファーストコンタクト(予)」だ。  プロジェクトファーストコンタクト(予)とは本当の宇宙人との遭遇の前に、宇宙人役を立てて地球への来訪を演出しファーストコンタクトの予行演習をして、人々に今一度宇宙へ関心を向けてもらおうという計画だった。  そして星野はその宇宙人役に抜擢されたらしい。  実のところ宇宙服の大男は(もらった名刺には下山田とあった)ある政府機関の職員であり、夜な夜な見込みの有りそうな人々に声をかけていたのだそうだ。  ちなみに断った場合、そうした計画が存在すること自体知られているのがたいへんまずいので、記憶消去を行うことになっているらしい。 「それってあの赤くピカって光るやつですか?」 「いえ、あれはフィクションですから。実際は青から緑の波長の光を明滅させて行います」  星野はあんまりフィクションと違わないと思った。  そして何より宇宙開発技術の産物が実は想像以上に先に進んだものであることを知った。  実のところ光の速度を超えることこそできないものの、人類は太陽系内をかなり自由に移動できる宇宙船も開発しているし、宇宙で暮らすのに便利な生体改造技術や宇宙戦争が可能な様々な兵器も開発済みなのだそうだ。  それらが極めて厳重に秘匿されているのはもちろん人間同士の争いに使われることを恐れてのことだ。  核兵器もおもちゃに思える強力な武器や無敵の軍団を作ることも難しくないそれらの技術が戦争に用いられればどうなるか、火を見るより明らかである。  それはさておき、星野はこの誘いを受けることにした。  常々今の職場にこれ以上居たくないと考えていたのでまさに渡りに船というやつだった。  その週のうちに退職届を提出し、週末には先方の事務所に顔を出した。  今の職場に未練はないし何より政府機関なら公務員だ。  事務所の受付につくと宇宙服の大男、下山田が出迎えてくれた。  ……たぶん下山田だ。  宇宙服の巨体の中身を確かめることはできないし、確かめられたとしても当人かどうか確認するすべ星野にはなかった。 「下山田さん……ですよね?」 「はいそうです、ようこそいらっしゃいました星野さん」  星野は思い切って疑問をぶつけてみることにした。 「下山田さんって、いつもその宇宙服を着ているんですか?」 「ああ、これですか。はいそうです。ここの職員は一部を除いてほとんどが生体改造しているので地球の環境下では生存が困難なので」 「え、それって……」 「正確に言うと私達の職場は宇宙にある宇宙船なので、宇宙船内に作り出しやすい環境に合わせて生体改造しているのです。そのため地球上では逆に宇宙服が必要になっちゃうんですよ」  どちらかというと星野は生体改造が必要なのかを知りたかったのだが、まあ知りたいことはだいたいわかった気がした。  どのみち星野は職場を半ば強引に放り出してここに来たのだから、戻ろうにも戻る場所もない。  星野の転職手続きはつつがなく完了した。  書類上の手続きが終わると次は生体改造だ。  下山田の説明では外見はいくつかのパターンから選択でき、ナノマシンを使用して約一週間かけて行われるそうだ。  星野がカタログから選んだ改造パターンは、背中にトンボのものを鋭くしたような羽が生えているタイプだった。  肌の色も選びたいと思ったがどれも緑色だった。 「なんで緑色なんですか?」 「宇宙船内では食糧生産システムに割ける容積が少ないですから、光合成でそれを補うんですよ」 「へー」  選択肢がないのは少し不満だったが、しばらく眺めているうちに緑色も悪くないかもしれないと思い始めた。  生体改造と言っても手術室で医師に囲まれて行うわけではなかった。  案内されたのはドーム状の天井を持つ円形のプールだった。  壁面に並ぶ照明が放つ青味がかった優しい光がプールの水面に反射し、天井にゆらゆらとした光の模様を描き出す。  ナノマシンがどういうものかわからなかったが、星野はプールの中に指示されるままに入り揺らめく水面に身を任せた。  プールの中でゆっくり漂っているうちに睡魔が襲ってくる。  星野はそのままゆっくり目を閉じた。 「お久しぶりです、星野さん」  下山田の声で星野は目覚めた。 「お久しぶりって……さっきプールに入ったばっかりですよ」 「いえ、もう一週間が経過しています。改造の方は滞り無く終わりましたので、プールから上がって構いませんよ」  プールサイドに上がると重力が全身にのしかかってくる。  まるで全力で泳いだあとのような気だるさを感じながら、そういえば最後に泳いだのはいつだったか考えていた。  プールから上がると今までの事務所とは雰囲気の違う部屋に通される。  壁は無骨な金属製で窓はなく、天井は全体が発光して照明を兼ねている。  そして部屋の中央には下山田が着ていたような巨大な宇宙服が背中を向けて立っていた。 「星野さん、その宇宙服を着てください」  下山田の声が星野に指示を出した。 「こんな重そうなの、着たら潰れちゃいますよ」  星野は不安と不満が入り混じった声を上げた。 「大丈夫です。パワーアシスト付きですので宇宙服自体の重さは感じません。着るというよりも乗ると言ったほうが良いかも」  宇宙服の背中に背負うように取り付けられていた巨大な四角い箱が大きな冷蔵庫の扉のように開くと、そこに四角い入り口ができた。 「中に入ったら手足を通してください。扉は自動的に閉まります」  星野は言われたとおりに宇宙服の背後から入り口によじ登ると中にはいった。  その時入り口に当たったことで初めて星野は自分の背中に羽が生えていることに気がついた。  羽もうまく宇宙服の中に収めようとすると、特に考えることもなく羽は思った通りに動いた。 「この羽って……」 「生体改造の際に脳の拡張も行っているので、自由に動かせるはずです」 「これ、飛ぶこともできるんですか?」 「地球の重力下では滑空するのが精一杯ですが、宇宙船内なら自由に飛べますよ」  少し動かしてみるとその半透明の羽は天井の照明を反射して虹のように様々な色に光って見えた。  しばらく自分の羽を眺めたあと星野は宇宙服の手足に自分の手足を通した。  下山田が言ったように宇宙船の背面の扉が自動的に閉じる。  それと同時に宇宙服の内側が頭のバイザー以外の部分も突然透明になって部屋の様子が見渡せるようになった。 「宇宙服が透明になっちゃったんですけど!」 「正確には宇宙服の内面に周囲の景色を投影しているんです。バイザーからは実際の外の景色が見えるので、宇宙服の手足も見えるはずですよ」  バイザー越しに景色を見ると下山田の言ったとおり宇宙服の手がそこにあった。  バイザー越しには正面から真上ぐらいまでの視界があり、左右や下は本当はそこに宇宙服の内側があるはずなのに、全て素通しして周囲の景色を見ることができた。  自分の体はまるで宇宙服を着ていないようにそこに見える。  そしてそれ以外の様々な数字や記号が宙に浮かんでいるように見えた。 「なんか色々浮かんでいるみたいですけど、これってなんですか?」 「簡単に言えば宇宙服や周囲の環境の情報ですね。詳しい説明はおいおいしましょう。今は気にしなくても良いです。それより今は目の前のドアを開けて進んでください」  視線を上げるとそこには入ってきたのとは別のドアがあった。  星野は言われるままに目の前まで歩く。  宇宙服はまるで存在しないようだった。  ドアの前に立つと星野はドアノブを探すが、それはどこにも見当たらない。 「下山田さん、ドアノブがないんですけど」 「ドアの前に手をかざしてみてください。ボタンが出るはずです」  下山田が何を言っているのかわからないが、星野はとりあえず言われたとおりにしてみる。  ドアの前に手をかざすとバイザー外の領域に見える自分の手の前の空中に「開く」と書かれたボタンが出現した。  星野はそのボタンを押してみる。  すると指先にボタンの感触を感じてそれが押された。  同時にポーンという電子音が聞こえてドアが素早く開いた。 「へぇ……」  星野はもう一度手をかざす。  すると今度は「閉じる」と書かれたボタンが空中に出現した。  ボタンはさっきと同じように押すことができ、ドアが閉まった。 「どうです?おもしろいでしょう。これがその宇宙服の機能の一つで、この施設内のシステムと連動して必要なコマンドを実行することができるんです」 「ボタンに感触があったけど」 「それは宇宙服のパワーアシスト機能の応用によるフィードバック機能ですね。実際にはボタンは存在しないけれど、宇宙服自身がボタンの感触を擬似的に作り出しているんです」 「へー」 「指で押すボタンなら指先以外では操作できないので、うっかり肘でボタンを押してしまうこともありません」 「なるほど……」  数回ドアの開け閉めを楽しんだあと星野は開いたドアをくぐって次の部屋に入った。  次の部屋はさっきの部屋よりもずいぶん小さく、宇宙服を着た状態ならせいぜい4人入るのが精一杯といったところだった。 「ここはなんですか?」 「ここはエアロックです。ドアを開ければ外の事務所に出られますよ」 「エアロック?」 「以前説明しましたが、生体改造を受けた私達は地球の大気中では環境による負荷が大きいのです。生きられないわけではないのですが、相当な不自由や不快感を強いられることになります」  星野は下山田の話を聞いて少し不安になった。  もう外の世界ではこの宇宙服なしでは生活できないのだろうか。  未練はないはずなのに、それがなぜか少し悲しい気がしてきた。 「先程までいた部屋は生体改造後の我々に適合する環境に調整されていました。このエアロックはその環境と本来の地球の環境とを切り分けるためのものです」 「なるほど」  下山田の説明を少し上の空で聞いていた星野は適当な返答を返す。 「とにかくこのドアを開けると外に出られるのね?」 「そういうことです。やり方は先程と同じです」 「わかった、やってみる」  星野がドアの前に手をかざすと再び「開く」と書かれたボタンが出現した。  ボタンを押してみると今度は「環境切り替え中」という表示のついたバーメーターが出現する。  同時に周囲から空気が流れるようなシューッという音が聞こえてきた。 「なんか音がするけど……」 「はい、現在その部屋の空気を抜いて地球の空気に入れ替えています」 「毒とかじゃないの……?」 「違いますよ」  下山田は少し笑いながらいった。 「仮に毒だったとしても、その宇宙服を着ている限り安全です」  話をしている間にバーメータが伸び切って、再びポーンという電子音が鳴った。  それと同時にドアが横にスライドして開く。  その向こうには宇宙服を着た一団がいた。  ドアをくぐって出てきた星野をその一団は拍手で迎える。 「皆さん紹介します。今度我々の職場に入庁された星野(ほしの) (ひかる)さんです」  聞き慣れた下山田の声が聞こえる。 「ようこそ我々の世界へ!」 「よろしくな、新人さん!」  目の前の一団から歓迎の言葉が雨あられと発せられ、星野に向かって注がれた。 「星野さん、なにか一言どうぞ」  下山田から突然振られて戸惑う星野はようやく挨拶の言葉を紡ぎ出した。 「えーと、ご紹介に預かりました、星野です。まだここがどういうところなのかわかっていないのですが、えーととりあえずよろしくおねがいします」  どうにか挨拶を済ませた星野に下山田が再び声をかけた。 「さあ星野さん、これから忙しくなりますよ。我々はこれから月の裏側に停泊している宇宙船に乗り込んで、各国の宇宙人の方々と合流し、冥王星軌道の向こう側まで行くのです。そしてそこからはるか遠く宇宙の彼方から来た宇宙人のふりをして地球人のみんなとのファーストコンタクトを演じるのです!プロジェクト ファーストコンタクト(予)の始まりですよ」  こうして星野(ほしの) (ひかる)は宇宙人を始めたのだった。
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