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第一話:だいかいじゅうとしゅうまつばくだん
入道雲の空の下、豪雨めいた蝉の合唱、黒ずくめのスーツの男が汗ひとつなく佇んでいる。
通勤ラッシュを過ぎた午前、プラットホームのひとけは疎らだ。白線の内側、男はスマホをいじるでもなくじっとしている。中折帽の陰の下、引き結ばれた表情は友好的とは言えず、どこか緊張感すら漂わせていた。
――男の正体はよその国の工作員である。今からこの国の政治の中枢を戴いたエリアへ赴き、『一仕事』することが使命だった。それも、命懸けの。
全ては恋人の為と、復讐の為であった。
まもなく電車が参ります――蝉を伴奏にアナウンスが流れる。
男はぐっと顔を上げた。目的地へ彼を運ぶ為の乗り物を待つ。横目に見やれば線路の向こう、ゆっくりと電車はやって来る。深呼吸をひとつした。一秒一秒がスローモーションのように感じる――。
その只中だった。
ふらり、男の視界の中に現れたのは幼い少年で。その子はそのまま――電車の迫る線路へと、ふらふら――足を――……
――電車が緩やかに止まる音。ドアの開く音。疎らな人の足音。アナウンス。
気付けば、男は少年を抱えたまま、プラットホームの真ん中でしりもちを付いていた。通り過ぎる人々が怪訝気な目でちらと見ては、エスカレーターの片側へと進んでいく。
「お、お前……!」
男は我に返っては慌てて立ち上がり、目の前の男の子の両肩に手を置いた。小学校の低~中学年ぐらいだろうか? 今日は平日だから、本来であれば小学校にいるはずなのに、ランドセルも何もない。
「危ないだろ! 死のうとするな!」
いろいろ言いたいことは込み上げるが、実際に言葉にするとこんな月並みなものしか出ないものだ。ようやっと少年が顔を上げる。ぼうっとした、子供がするには疲れ果てたような、鮮やかさが全くない表情をしていた。
だが――目が合った途端、少年の顔はどんどん歪んで、赤くなって、瞳からは大粒の涙がボロボロこぼれ始めて――わあ、と大きな声で泣き始めてしまうではないか。
男は面食らってしまう。というか少年を引き留めた時からずっと困惑している。周囲の眼差しが痛い――小さな子供を泣かせた男、社会的にアウト――今度は男の顔が歪む番だった。
「馬鹿っ、泣くな泣くな! ああもう……ちょっと来い!」
男は子供の手を掴むと、大急ぎでその場から離れるのだった。
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