第二話:果ての底のアプロディーテー

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 アーカイブコーナーはすぐ近くだった。ここが物理的な本を並べている部屋だったなら、きっと床――いや、天井中に本が散乱していたことだろう。図書室というよりパソコン室に趣は似ている空間だ。並んだデバイスから閲覧したい電子化書物をいくらでも読める場所である。……尤も、それらは天井と化した床に固定されているので、手が届かない存在になってしまったが。 「うう……手が届かなくて読めないです」 「……よくこんな状況で読書したいって思えたな」  ミチルの言葉に、髪を揺らして振り返った乙女は困ったような笑みを浮かべた。それからこう言う。 「ねえ、脱がせてくださる?」 「勘弁してくれ」 「ふふ。少しからかいたくなっただけです」 「そうかい……」  後頭部を掻いて、ミチルは上着を脱いで「ほれ」と乙女の方へと差し出せば、白い手がそれを受け取った。それから男は後ろを向く。ついでに手近に落ちていたブランケットを肩に羽織った。別に半裸になったわけじゃない、上はシャツ姿だけれど、あなたの体が冷えたら困るとおてんば娘に言われない為だ。  衣擦れの音がする。 「ねえ、ミチルさん」 「なんだ」 「……恋をしたことはありますか?」 「藪から棒だな……」  女の子ってのは猫も杓子も恋バナとやらにお熱なのか。男は偏見気味の思いを胸に、小さく溜息を吐く。 「ないよ。ない。俺が子供の頃にこの大戦争が始まって、国がメチャクチャになって、それどころじゃなかった。すぐに軍に入ったしな。……それにこの顔だ、モテないし」  最後の言葉は半ばジョークだ。ミチルは顔に三本入った傷痕を指先で撫でる。 「その傷痕も含めて、あなたという存在なのでしょう?」  ミチルの分厚い背中に、乙女は淀みなく言う。それからこう続けた。 「私も……恋をしたことはありません。なので、……これは私のワガママなのですけれど」  その声は花が咲くよう、しかし、どこか一抹の寂寥を帯びてもいた。 「――この船が沈み切って藻屑になるまで、私と恋人ごっこをしませんか?」  思わず、ミチルは断りも忘れて振り返っていた。荒唐無稽すぎて片眉を持ち上げていた。  乙女はワンピースドレスのように男の大きな軍装を纏っていた。腰のベルトを結んでウエストリボンのように仕立てている。白い素足の眩さは倒錯的でもあった。神秘的だった。  男は視線を彷徨わせる。 「なんでそうなる」 「だって私……何も、何も知らないんですもの。何も知らないまま、空虚なまま、憧憬だけを胸に抱いて消えるなんて、悲しいです……なにか、せめて、一つだけでも、知りたいんです」 「だ、としても、こんな、まだお互いの名前しか知らないような」 「そう。だから、言ったでしょう――恋人『ごっこ』、って」  乙女が一歩、男の顔を覗き込むように。 「ささやかな、深刻ではない、模倣でいいんです。……こういうのを一生のお願い、っていうんでしょうか。私の……最初で最後のワガママです」 「……。いいのか俺で」 「ミチルさんこそ、突っぱねてくれても構わないんですよ?」  そんな風に微笑まれて――ミチルは考え込んだ。普通の倫理観から言えば、こんなほとんど見ず知らずの乙女といきなり恋人、しかも『ごっこ』なんて、頭のおかしい話である。  けれど、だ。もう助からない、死ぬしかないこの状況。……死ぬ前の多少のトンチキぐらいは許されるのではないか。それで誰かの未練を昇華してやれるのであれば。現実逃避で、少しでも絶望を直視せずに済むのであれば。馬鹿々々しい話だけれど、全てを飲みこむ破局の前ではなんだっていい。 「一つ言っておく。……若くて綺麗な娘さんだから呑んだ話じゃないからな」  下心があって鼻の下を伸ばして頷いたと思われるのは不本意だった。たとえリンダの見た目がどのような形であろうと、ミチルは頷いていた。「あなたでよかった」、とリンダは嬉しそうに言う。 「それじゃあ――死が二人を別つまで、どうぞどうぞよろしくね、ミチルさん」  乙女が手を差し出し、男の大きな手を握る。分かち合う体温は、冷たい深海での唯一の熱だった。ミチルは視線を手元に落とす。そして、リンダの手を柔らかく握り返した。  誰かにとっての特別になる。たとえそれが『ごっこ』でも―― 「できる限りは、誠実でいようと思うよ」  その言葉は、本物だった。 「ありがとう」  リンダは握る手にもう少しだけ力を込めた。まるで宝物を扱うかのような大切さで。 「……今日のところは疲れているでしょう。いろんなことがあって……怪我もしているし」  お休みになられてはいかがです。リンダはそう言って、ミチルに座るよう促した。リンダに言われた通り、男は酷く疲弊していた。促された通りに座り込む。『床』に照明が付いており、天井に家具が生えているのは、改めて騙し絵の中にいるような奇妙な心地を産んだ。次に、まだ電気は生きているんだなぁとどこか遠く感じた。 「膝を貸しましょうか?」  乙女は白い足をぽんと叩いて無垢に微笑んだ。ミチルはやっぱり、苦笑を浮かべる。 「気持ちだけ受け取っておくよ。……重たいから、足が痺れるだろうし」  天井は硬いけれど、ブランケットを敷いてどうにかする。その上に横になる。リンダが甲斐甲斐しくその体に別の毛布を掛けてくれた。 「……リンダも休める時に休んでおけよ」 「お気遣いどうもありがとう、私のジェントルマン」 「よせよ」  軽いやりとり。ミチルは目を閉じる。体が鉛のようだった。こんな状況でも悠長に眠れるものだな、と男は思う。どうせだったら、眠っている間に船が砕けて知らぬ間に死んでいたい。そこまで考えたところで、眠気はあっという間に、男の意識を深く沈めていく――……。
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