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目的の駅ではないのに改札から出た。少年はポケットの中にあったICカードでどうにか事足りたらしい。ぐしゅぐしゅと泣く子供の手を引いて、周りの視線に突き刺されながら、男は駅前のファミリーレストランに上がり込む。
何名様ですか、二人、お煙草は吸われますか、吸わない、あちらの席へどうぞ。そんなやりとりの後、窓際の席、男はまだ泣き止んでいない男の子(どうにか大声は収まった)を席に押し込むと、自分はその向かいに座った。
「……なんか飲むか」
俯いて両手で目をこする少年に、男は気まずそうに話しかける。しかし嗚咽しか返ってこないので、諦めて、店員を呼んで、「メロンクリームソーダとエスカルゴ、俺は水でいい」と注文をした。まだ昼時には早いからか店内には人はそうおらず、メロンクリームソーダはすぐに来た。それから水も。
「俺はネロだがお前の名前は?」
甲斐甲斐しくストローを挿してやりながら、黒ずくめの男――ネロは尋ねる。少年はようやっと顔を上げた。涙でべしょべしょだった。
「ミチル……」
「ミチルくんか。……それ飲んでいいぞ」
「……いいの?」
「いいから『いい』って言ってるんだよ」
ネロがあごで示すと、少年――ミチルはおずおずと、鮮やかな緑色で満ちたグラスを引き寄せた。泡をまとった氷でキンと冷え、水面には真っ白いバニラアイスが浮かんでいる。窓際からの光にそれはキラキラしていた。
ミチルは上目に男の方をちらと見る。中折帽の陰から、ネロはあまり人相の良くない目つきで少年とメロンクリームソーダを監視していた。「飲め」と圧を出している――だから少年は躊躇いながらもストローを咥えた。
甘い――甘い味。炭酸がしゅわしゅわと弾ける。アイスを混ぜて溶かして飲めば、アイスのまろやかな甘みもそこに加わった。さっぱりとして、冷たくて、真夏に浸った体に心地よく染み渡っていく……。それは少年にとって、感動的な心地だった。
「こんなの、初めて飲んだ……」
「そーなの? ふぅん」
男は間を繋ぐように、冷たい水を一口飲んだ。
「で、少しは落ち着いたか?」
「……」
「まあいいさ。それで、何があったんだよ? 線路に飛び込んだらどうなるか、流石にその歳でも分かってるだろ?」
「死のうと思った」
ぽつりと放たれる言葉に、予想はしていたとはいえ男は肩を竦める。
「学校でイジメでもされてんのか?」
ミチルは首を横に振った。それから、嫌われてもいないが、特別仲の良い子もいないことを告げる。弾かれないが迎えられもしない、そこにいるだけの、いてもいなくても同じなのだと。
しかし、線路へ身を投げようと思ったのはそれが理由ではないと少年は続けた。
「お金が欲しかった」
「……金? どうやって。線路に飛び込む仕事でも請けたのか?」
「ほけんきん……死んだらお金になるんでしょ……?」
「馬ッ鹿、ふつー自殺じゃ保険金はおりねぇよ!」
男が顔をしかめてそう言うと、ミチルは驚いたように目を丸くして、眉尻を下げて泣きそうな顔をした。強い言葉で否定されたからではなく、先程の行為が無意味だったことを知ったからだった。
「じゃあ僕、どうしたら……」
「そもそも……なんで金が要るんだよ?」
ぱっと見て貧乏そうには見えない身なりだ。普通の、どこにでもいる家庭の、という印象がある。子供がお金を欲しがる理由なんて――ネロは「好きなゲーム? いやいや自分が死んだら意味ないし」など考えつつも、相手に話すよう促した。ミチルは半分ほど減ったメロンクリームソーダに視線を落としている。
「……お金があったら、お母さんも喜んでくれる……きっと、僕を産んでよかったって思ってくれる」
「あー……」
ネロは額を押さえた。この子供、虐待でもされているのか? 一見して傷は見られないが、よもやシャツの下は……というやつか? 随分とヘヴィなネタに踏み込んでしまったものだと形容しにくい気持ちになる。
「えーと……とりあえずだな。殴られたり蹴られたり煙草の火ィ押し付けられたりしてるんなら、学校の先生とか身近な大人に言うんだ。あと警察とか? いや先に病院の診断書か……」
「……痛いことはされてない」
「あ?」
「何もされてない。何も、されてない。もうずっと目を合わせてないし、お喋りもしてない。僕はいないこなんだ。いてもいなくても同じ。誰かにとっての一番になれない」
だから、死んでお金がたくさん入れば、たとえ一瞬だけでも母親の一番になれるのではないか。そう考えてしまったのだという。両親の、ではなく母親の、と言った口ぶりからミチルが片親の家庭であることが察せられた。そして彼女は仕事に追いやられ過ぎているのだろうことも。経済状況があまりよろしくないのだろうことも。
「詳しいこととかは分かんないけどよ」
ネロは肩を竦めて言う。
「泣くぐらいなら死のうとするなよ」
その言葉にミチルははっとしたように顔を上げ、何かを言おうとして――「お待たせしましたエスカルゴです」、と店員の声に全ては遮られて有耶無耶になった。タコ焼き機のような穴あきのプレートに、ぐつぐつ煮えたぎったオイルの中のエスカルゴ。テーブルに置かれたそれに、少年は目を丸くする。
「……それなぁに?」
「エスカルゴ。カタツムリだよ」
「ええ……カタツムリって、あの? うええ……病気になりそう」
「店で病気になる食いもん出すかよ。食用のカタツムリだぞ。うまいぞ、貝みたいで」
「……」
「そんなドン引きするなよ」
ネロはわざとっぽく口をへの字にして肩を竦めた。そのままエスカルゴを食べる素振りを見せないので――ミチルは首を傾げる。
「……食べないの?」
「見たら分かるだろ、まだ熱すぎる。グッツグツだ。……まあ俺はゆっくりしてるからよ、お前ものんびりそれ飲んだらいいぜ」
まあ、あんまりのんびりしてたら氷が溶けて薄くなっちゃうけどな。ネロはそう言って、頬杖の姿勢で窓の外を眺めている――ありふれた駅前の風景。午後も近い真夏の日中。炎天下を車が通り過ぎる。人々は太陽に顔をしかめながら歩いていく。
平和なものだ。
こうしていると、この国が世界で一番の軍事国家で、事実上の世界の支配者であり、世界中のありとあらゆる紛争の関係者で、武力でなんでも解決したがる恐怖の存在だなんて、ネロにはとても想像できなかった。しかしそれらは紛れもない事実なのだ。そして、男はかの国の横暴と、それが生み出す悲劇と犠牲者をこれ以上増やさない為にも、命を懸けてここへ来たのである。
(……なのに、何やってんだかなぁ、俺……)
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