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ちらと視線を前にやれば、バニラアイスが溶けてクリーミィな緑色になったメロンソーダをちょっとずつ飲んでいる初対面の子供。どうやら誰からも大事にされなかったことで、心のよすがも居場所もなくて、自己の存在を保てなくなっている哀れな子。自分の存在に価値を求めて苦しんでいる可哀想で愚かな存在。これだけ豊かな国でもこういう存在はいるものなのだなぁとネロは思った。
……まあ、作戦決行までまだ時間はある。今だらだらしているこれはただの時間潰しだ。そう思いつつ。
「うまいか?」
「……うん。……ありがとう。僕……いっぱい迷惑かけてるね」
「子供なんだから、なんでも要領よくできるわけないだろ。子供が完璧なら学校も親もいらないって」
「ネロは不思議だね。……不思議なことをいっぱい言うね」
「世の中にはな、不思議で意味不明で意思疎通ができない人間の方が多い」
ネロはスプーンでエスカルゴをつついている。ふうふう冷ませばいけないこともないだろうか、いやまだ無理そうだ。そんな考えがスプーンの躊躇うような動きが物語っている。ミチルは油の付いた銀の匙を見つめている。口の中はまろやかに甘い。
「ネロはどうして、僕を死なせないようにしたの?」
また一口分の炭酸飲料を口に含んで、ミチルは問いかけた。あの時――ミチルは本当に消えるつもりだった。今ならいけそうだ、できそうだ、唐突にそう思ったのだ。この気持ちが消えてしまう前に、と少年は学校から抜け出した。誰も引き留めなかったし追いかけてもこなかった。振り向いたそこに誰もいなくて、背中を押されたような気がした。だから「できる」と確信した。確信できてしまった。
「目の前で死にそうな子供がいたら助けるだろ」
ネロは言う。ミチルはまばたきひとつ分の間を空けた。
「……ヒーローみたいだね」
「ヒーロー……ねぇ。その逆だよ俺は」
「どういうこと?」
「俺はなぁ――悪の怪人なのだ!」
冗談めかした口調で言った。ミチルはぽかーんとその言葉を聴いたが、「かっこいいね」とおかしそうに含み笑った。
「怪人なら、変身したりするの? 巨大化する?」
「まぁな」
「じゃあ見せてよ」
「まあ、そのうちな」
「えー」
やっぱりできないんでしょ、といった意図がミチルの言葉には含まれていた。しかしそれは笑い話の範疇で、少年は大人にからかわれているのだと思っていた。大人も穏やかに目を細めていた。
そうこうしていると、エスカルゴはなんとか火傷しない程度の温度になっていた。ネロはテーブル上のケースに置かれていたスプーンを一つ手に取ると、ミチルの方に差し出した。
「ほら、そろそろ食べれると思うし、一つ食べてみなよコレ」
「えー……」
この「えー」はさっきと違って、明らかに拒絶の「えー」だ。少年にとってカタツムリを食べることは馴染みのない行為だった。いくら食用で――見た目も貝のぶつ切りのようで、「いかにも」な見た目ではないとはいえ、口にするのはとても躊躇われた。すると、ネロが鼻で笑う。
「なんだ、死ぬガッツがあるんならコレぐらい余裕だろ」
言われてみれば、である。ミチルは逡巡する。それから――差し出されたままのスプーンを手に取ると、まだ温かいそれをひとすくい。「火傷するなよ」と言われつつ、ふうと吐息で冷まし、まじまじと間近で見下ろして、また逡巡して――どうにか、一口。
「ん……!」
口の中のそれは香ばしくてオイリーで、貝に近い具合の食感と、濃い味。臭みやぬるつきや変な感じは一切しなかった。
「……おいしい……!」
「だろ? 上っ面と偏見で判断しちゃならねぇってこった」
そう言って――ネロはおもむろに立ち上がった。「あとは全部食べていいよ」と言いながら、財布の中から引っ張り出した紙幣をまとめて卓上に置く。
「俺はそろそろ行くからよ。金は置いとくから……算数はできるな? 予算内で好きに飲み食いすりゃあいい。おつりはお小遣いにしな」
じゃあな。ネロは踵を返そうとする。
「待って」
ミチルはその背を呼び止めていた。ほとんど反射的だった。
「待って、ネロ……つれてって」
「……つれてくって、」
どこにだよ。顔だけ横向けて振り返るネロが、帽子の陰で呟く。少年は俯いた。
「ネロのいくところ……」
「駄目だよ。俺はこれから仕事なんだ」
「邪魔……しないから……!」
帰ったところで。戻ったところで。またいつものカラッポな日々だ。誰にも見向き去れず、誰かの特別にはなれず、漫然として、ただ生きているだけの……。だからミチルはそんな世界を捨てたかった。生まれ変わりたかった。ネロについていけば、何かが変わりそうな――そんな漠然とした期待があった。「ついていきたい」がただの幼い我儘で、彼にとって迷惑になるとは自覚していたのだけれど。
「あー……」
案の定、ネロは困った顔で後頭部を掻いた。ここで黙って立ち去れていればよかったものをと男は内心で自嘲する。
さてどうしようか。ネロの目の前には泣きそうな顔の少年。見捨てるか、連れていくか、どっかに連絡でもしてやるか。現実的なのは3つ目だ。理想を言えば親にでも連絡して、なのではあるが、よその国の工作員が他人の家庭事情に首を突っ込むのはどうなんだ?
ネロは溜息を飲みこむ。逃げるように視線を上げた。ファミレスの大きな窓の外には夏の景色が目に痛いほどギラついており――ちょうど、通りに幾台かの車が停まっていることに気が付いた。そして、そこから出てきたと思しき者らが……たった今、ファミレスのガラス扉を開けたことにも。
一切の乱れなきスーツの彼らは物々しい雰囲気だ。とても食事に来た団体客には見えなかった。怖気ながらも店員が「あの、何名様で……」と呼びかけたのを無視し、一団はネロへと歩み寄りながら無表情でこう言う。
「A国工作員のネロですね」
「……なんでバレてんだよ?」
「我が国の情報収集能力が、純粋に貴国を上回っていただけです」
「流石、世界一の軍事国家様は格が違いますなぁ……」
「我々に同行して頂きます」
「――……」
ネロは押し黙る。場違いなほど平和な店内BGMが、無言を気まずくさせていく。
その一方、緊迫した大人達を不安そうに見上げるミチルへ、一団の幾人かが眼差しを向けていた。「この子供は?」「情報にない」「連れていけ」と――そんな会話を盗み聞きながら――ネロは歯列を剥くように笑った。
「同行はできない。俺は……ここで道草食ってる場合じゃないんでね」
す、っと。まるで握手を求めるかのようにネロは中空に手を差し出した。片手だけでなく、両方の手を。
その瞬間。ネロの両手がぐじゅりと蠢いて――幾本もの黒い触手へと変貌する。一団がぎょっと息を呑むのも束の間、鞭のように振るわれた触手が彼らを無慈悲に薙ぎ払う。あるいは絡め取って窓の外に投げ飛ばす。ガラスの割れる音と、一団のうめき声と、店員の悲鳴が響いた。
「ミチルくん、来い!」
窓の外で待機していた者らが、一斉にネロへ銃を向ける光景を視界の端に――男は触手の一本でミチルの小さな体を軽々抱えて走り出す。
銃声。銃声。またガラスが割れて、店員はすっかりパニックになって泣き叫び続けて――そんな音を聞きながら、ミチルの視界は目まぐるしく回った。
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