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話しかけても「疲れてるから後にして」と応じてもらえない。
悩みをうちあけても「それも社会勉強だから」とにべもない。
彼女の目に、小さな子供は映っていない。父親は、顔も知らない。
誰もその子を見ていない。家でも。学校でも。漫然とした背景のひとつにすぎない。いっそ拒絶されて迫害されている方が、存在を認知されているものだ。いてもいなくても同じだ。空気はまだ誰かに吸ってもらえるから、空気ですらない。透明な、なんでもない、何かだった。
「僕は誰?」
のっぺらぼうだ。自分がない。気に入られたくて、周りに何となく合わせていても、ただそれだけ。それだけで終わり。勇気を出して話しかけても。目立とうと意を決しても。結果はさもありなん。
――迫る電車。アナウンス。蝉の声。ここに飛び込めば、何かに誰かに見てもらえる。かもしれない。お金がたくさん入って、母親はもうつらいつらいと愚痴をこぼし続ける仕事をしなくて済むだろう。そうしたら感謝してもらえるはずだ。居ても良かったと思ってくれるはずだ。
衝動で、一念発起だった。どうにかしたいと考えた果ての。こんなことしか思いつかなかった。小さな子供の発想では。自分磨きとか、努力とか、折り合いの付け方とか、忍耐とか、そういうことを教わってはいなかった。誰からも。だから分からなかった。
メロンクリームソーダの甘い味が、口の中に残っている。
●
はぁ。
はぁ。
弾む息と生温さ。アスファルトの陽炎。
誰もいない日中の公園。UFOを象ったオブジェクトは空洞で、中に入ることができた。炎天下に比べれば、コンクリートのシェルターはいくらかヒンヤリとしている。ネロとミチルはそこに隠れるように座り込んでいた。
こうしてじっとしていると、まるで秘密基地のような感覚で――ミチルは鮮烈な想いが心を染めていくのを感じるのだ。そうしてつい先程の出来事を思い出す。変身した怪人、スーツを着た大人達、銃声、疾走――何もかもが非日常で。まるでテレビかマンガの世界に飛び込んだかのようで。驚きはある。銃声は恐いとも思った。けれど感動がそれを上回っている。
もしたしたらここは死後の世界で、己は夢を見ているんだろうか? 少年はふっとそう思い、頬を抓ってみた。痛みが現実を知らせてくれる。嘘みたいな本当だった。
そんな少年の隣、男は大袈裟に溜息を吐いた。
「くっそ~~……どっから情報漏れたんだよ……こんなの聞いてないぞ……」
UFOの内側に背を預け、顔をしかめるネロであるが、その顔には汗一つない。それが先の触手を始め、彼の構造が人体のそれとはいくらかかけ離れていることを示している。なお、今の彼の手は普通に人間の手だ。
「ネロ、ほんとに怪人だったんだ……」
隣に小さく三角座りしているミチルは、真夏の暑さに額に汗を浮かべている。ちらと横目に黒スーツの男を見る。「だから言ったじゃねぇか」と男は小さく言う。
「ネロは何しに来たの? 世界征服?」
「……そうだな。世界征服だよ」
「すごい……」
「すごかねぇよ。いや、すごいかも」
「なんで世界征服するの?」
「上が決めたから。……まあ、世界をより良くする為だよ」
「より良くなったらどうなるの?」
「戦争が減って、経済もいい感じになって、過ごしやすくなるんじゃないかな」
「ネロは『かいぞうしゅじゅつ』をしたの?」
「そーだな。良く知ってるじゃないか」
「テレビでやってた」
「ほー。まあ、そうだな。改造手術。……それ受けたら、願いをいっこ叶えてくれるって言うからさ」
「願い?」
「いろいろね。大人にはいろいろあるの」
はぐらかして、手をヒラリとして、ネロは質疑応答を打ち切った。
「はぁ……それよりもだ。すまんな、ミチルくん。巻き込んじまった」
ミチルは工作員の関係者と見られてしまっている。さてどうしたものか。下手をすればこの少年が危ない目や酷い目に遭うかもしれない。いやもう危ない目には遭っている。「この子は無関係になんです」とのたまっても信じてもらえるかどうか。多分、信じてもらえない。
「別にいいよ」
少年はシンプルに答えた。その言葉尻にも、横顔にも、どこかわくわくとした様子があった。こんな状況に置かれて嬉しそうにするなど不謹慎ではある、なれど子供ゆえの無垢さでもある。なにもない色もない世界が唐突に鮮やかになったような――そんなドキドキした心地が、小さな胸の中にあった。
「そっか」
ネロは複雑である。嫌だ嫌だお家に帰してと泣き叫ばれている方がよかった。気持ち悪いバケモノ、と恐れられ侮蔑されている方がよかった。
「あのね」
顔を上げるミチルの眼差しの奥には、どうしようもなく憧憬がある。眩しかった。夏の太陽よりも。だからネロは直視しないよう横目に、「なんだ」と言葉を促した。少年はこう言う。
「駅で……ネロは僕を助けてくれた。僕に死ぬなって、言ってくれた。『死ぬな』って……生きてていいって言われたの、居てもいいんだって思えたの、すごく……すごく、すごくうれしかったんだ」
だから駅で助けられた直後、心がぶわっと嬉しくなって泣いたんだ――膝を抱えて俯く少年の目が、またじわりと潤んでしまう。存在を肯定されて、ずっとふわふわしていた心地が、急に、地に足が着いたような気がした。これが「いてもいい」ことなのだろう、と少年は感じた。それはとても――安心した。
「お前、変な奴に懐いちまったなぁ」
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