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「ネロ……」
少年の不安そうな声が、蝉の声が響く世界にぽつんと落ちた。
「大丈夫だよ、死んでないさ」
青い体液を流しながら、人間の姿にどうにか戻ったネロは親指を立てた。彼の足元には、バラバラになったロボット兵士の残骸が転がっていた。力尽くで捩じ切られた金属の断面から、ネロの力が常軌を逸していると物語る。
「ケガ、してる……」
「再生する。気にしなくていい」
「……痛い?」
「平気平気」
痛みを感じない体なんだ、とは告げないで。ネロは落ちていた中折帽を拾い上げ、砂を払って、また被る。長い溜息。つばに空いた銃創から空を仰ぐ。一間の後に手招きすれば、UFO型オブジェクトからミチルがおずおず這い出した。隣にやって来る。俯いている。
「……」
いろいろな感情が渦巻いて、なんて言ったらいいのか分からない。ミチルはそっと、スーツの袖の端を掴んだ。
「ごめん」
ようやっと言えたのはそんな言葉だった。「なんでお前が謝るんだよ?」とネロは片眉を上げる。分からないから、ミチルは黙っていた。
「……俺が生きててよかった?」
茶化すような物言いでネロが言う。少年は頷いて、袖を握る手に力を込めた――誰かに縋られると存在を肯定されているような気がして、ネロは少しだけ小さな掌を見つめていた。
――人を逸脱したネロの聴覚が、近付いてくる気配を察知する。追手だろう。悪しき怪人を滅殺する為の。一瞬だけ、ミチルをここに置いていくか悩んだけれど……結局、男はまた少年を抱えて『跳ぶ』のだ。電柱より高く、屋根より高く。変な感じにかかる重力と浮遊感。少年の驚いた悲鳴。
「こら! 静かにしろ!」
「――っご、ごめん」
ひと跳び、ふた跳び、ネロは狭い路地に紛れていく。追手を撒いていく。
風がごうごうと耳元を通り過ぎていく。暑いはずの空気だけれど、涼やかだった。
「ネロ、すごい」
「俺もそう思う」
元々はただの人間だったのだ。そう――その辺にいるような、ありふれた、ごく普通の。
着地する。狭い路地だ。古びたアスファルトの隅っこに緑が生えている。自動販売機がぽつんと立っていた。それを一瞥し、ネロは少年を下ろす。少年は男を見上げ――その傷が「再生する」と言った通り綺麗になっていることにまばたきを一つした。
「すごい、ネロかっこいい! ネロが世界征服してくれたらいいのにな。その方がもっとよくなるんでしょ? 僕みたいなことを考える子もいなくなるの? 大人は仕事仕事って愚痴ばっかり言わずに済むの? いいなぁ……ねえ、絶対絶対、世界征服してよね、ネロ」
それは少年が初めて見せた嬉しそうな笑顔だった。眩しくて明るくて無垢で――無知で残酷だった。
(ああ、俺、心まで怪物になってたらよかったのになあ)
胸の奥がずくんとしたのは事実。ネロは愛想笑いのようなものをどうにか浮かべるので精いっぱいだった。だから話題を変えるように、無事だった財布からコインを取り出して、自動販売機に入れる。スッキリ甘いソーダの缶だ。かしゅりと開封してやってから、「ほれ」と少年によく冷えたそれを渡す。
「汗かいて喉乾いたろ」
「……いいの?」
「いいよ。遠慮すんな」
「ネロは飲まないの?」
「俺はいいや。なんか気分じゃないし」
少しだけ休みたかった。フェンスにもたれて、長い溜息。自分の掌を見る。
(あんなヤベエ兵器を……俺が、一人で……)
対峙したロボット兵器の動きを目で追うことができた。反応することができた。装甲を掴んで捩じ切って引き千切ることができた。撃たれても死ななかった。痛みも感じなかった。後戻りはできない体になってしまったのだと、痛感する。人ではなくなった事実は少し気が遠くなりそうだ。けれどネロは、ぐっと力強く掌を握り込む。
(ただの人間をこんなことにできるんだ……だからきっと……サチコの体だって、きっと治ってる。今頃、きっと……)
恋人の笑顔を思い出す。悔いはない。これでいい。進むしかない。大丈夫。大丈夫。できる。
顔を上げた。缶のソーダをちまちま飲んでいる少年を見る。
「うまいか?」
「甘くておいしい。メロンクリームソーダと似てる」
「ソーダだからな。炭酸気に入ったみたいだし」
「しゅわしゅわして楽しい……」
ミチルはソーダを気に入ったようだ。両手で結露した缶を大事に持って、飲み口の中の真っ暗闇を見つめている。
「ちっちゃい頃ね……」
おもむろに、幼い声が語り始める。
「自販機の飲み物をすごくすごく飲んでみたくて、お母さんに買ってってねだって……そう、冬だった。寒い日で……いつもは何か買ってって言っても無視するのに……その日はね、買ってくれたんだ。あったかいコーヒー牛乳……缶が熱くて、手が熱くなって、そしたらお母さんがね、僕の手を握って――」
ミチルの手、あったかいね。
しゃがんで目線を合わせて、微笑んで、そう言って、手をさすって、頭を撫でてくれた。
それがすごく嬉しかった。「ヤケドしないようにね」と声は優しくて。
「僕が死んだら、お母さん泣いてくれるのかな」
「泣いてくれるさ」
ネロは少年の頭の上に掌を置いた。
(この国が……葬式を悠長にあげられるような状態になってれば、な)
心の中で付け足した。男はしゃがんで、少年の両肩に手を置いた。
「よく聴け、ミチルくん。偉い人が言ってた言葉だ。――人は誰でも、その生涯で15分だけは有名になれるんだと」
真っ直ぐに少年を見つめる。まだ知らないことばかりの、あまりにも小さな子供を。
「これからミチルくんの世界は大きく変わると思う。それがお前にとっていいことになるのか、よくないことになるのかは、俺には分からない。だけど、多分、これまで通りの生活はできなくなると思う。この国はメチャクチャになるか、滅んでしまうか……もしかしたら、ミチルくんの知ってる人が死んでしまうかもしれない。死んでしまうのはミチルくんかもしれないし、お母さんかもしれない」
最後の言葉で少年は目を見開く。どれだけ蔑ろにされていても、子供にとっては親が世界で――愛しているのだと、伝わってきた。だからこそ、ネロは真剣に続ける。
「いいか。酷いことになったら、つらくなったら、俺を憎め。俺のせいにしろ。全部全部――これから起きる『俺の15分』のせいにしてくれ」
「ネロ、どういうこと……」
「今は分かろうとしなくていい。だけど、どうか覚えてて」
ネロは微笑んだ。
「あそこでお前を止めなかったら、どうなってたんだろうなぁ」
曖昧に呟く。死のうとする少年を見殺しにしたら。電車が止まって、舌打ちをして、それで終わりだったんだろうか。それとも心が痛んだだろうか。何が正解だったのだろう。
そして――ネロは異形の爪で、ミチルの顔に傷を刻んだ。骨と目を傷付けないように、額から斜めに三本線。ざくり。柔らかい子供の皮膚は肉は呆気ないほど引き裂かれた。
「あぁあああ!」
少年は声をひっくり返し、顔を抑え、崩れるようにうずくまる。取り落とした缶がアスファルトにガランガランと転がって、飲みかけだった甘い水が飛び散った。
「いいかミチルくん、お前はおっかない怪人の人質になってたんだ。それで命からがら逃げだしたんだ。その傷が証拠だ。お前はバケモノに襲われたんだ。お前は何も悪くない」
罪悪感はある――ボロボロ泣く子をただ見下ろして、ネロは震えそうな息を飲む。これだけ傷付ければ、ミチルと己は無関係なのだとこの国の連中も納得してくれるだろう。工作員の疑いをかけられて拷問される、殺される、なんて事態は回避できるはずだ。ネロはそう信じるしかない。ついでにミチルが憎んでくれたら万々歳だった。この国を破壊しに来た生体兵器に情なんか持ってはいけないのだから。
「じゃあな、ミチルくん」
ネロは踵を返そうとした。
――けれど。
「待って……待って、ネロ……!」
少年の涙ぐむ声が絞り出される。待てと言われて待つつもりはなかった。だが。
「ネロ、死んじゃうの……?」
その言葉に男は足を止める。
「……どうしてそう思った?」
「分からない、けど、そう思ったから」
それは、もしかしたらミチルが死を決意したことがあるからかもしれない。だからネロから『死の決意』を感じとったのかもしれない。
「ネロ、死なないで……嫌だ……どっか行かないで……!」
「俺はお前に暴力をふるったんだぞ。なんでそんなことが言える?」
「だって……ネロは……僕に死ぬなって、言ってくれたから……」
こんなことをされても、まだ信じようとしてくれるのか。ネロはぐっと血の付いた拳を握り、解き、そして言う。
「……それでも」
ネロは振り返る。血だらけの子供につかつか近寄り、見下ろした。
「俺はもう引き返せないんだ。……ミチルくん、お前にはまだ、いろんな選択肢がある」
懐から取り出したのは、銀色の指輪だった。指に着けていなかったのは、変身したら指が指の形でなくなるからだ。ネロはそれを、少年の目の前の地面に置く。内側には「ネロ、サチコ、永遠に」と彫られていた。
「俺の恋人、サチコっていうんだ。……サチコにそれを渡してくれ」
だから死ぬなよ。絶対に生きろよ。――男は少年に目的を与えて、「それでも生きろ」と呪いをかけた。
少年は赤い視界の中で、銀色の煌めきを見る。血がべっとりついた掌を伸ばして、掴んで、顔を上げて――遠ざかるネロの背中が見えて。痛くて痛くて血が止まらない。蝉の声の残響に囲まれ、意識はブラックアウトしていく……。
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