第二話:果ての底のアプロディーテー

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第二話:果ての底のアプロディーテー

 かくして、世界は大きな大きな戦いに包まれた。  世界を支配していたその国はギリギリのところで倒れなかった。そのことに恐れをなした幾つかの国々は報復を恐れて、かの国へと協力姿勢を見せた。その中には、本来はかの国を打倒する側の勢力であった国すらも含まれていた。  深刻なダメージを受けた巨国は報復すべしと怒り狂っていた。こうして世界は二つの勢力に別れ、そこに裏切りや思惑が交錯し、連鎖し、戦況は複雑に泥沼に、混沌へと果てていった……。  ――顔に三本線の傷痕がある男は、海の深い場所でそんな地上の惨劇に思いを馳せる。  彼がいるのは潜水艦の中だった。その船の名はアプカルル号。それは選ばれし者――ごく一部の技術者や富豪や学者や芸術家など――を地上の戦禍から守るシェルターであった。  しかし傷痕の男はそういった高尚な存在ではない。高尚な存在を護る為の兵士として、高尚な彼らが軍から派遣を要請した存在だった。選ばれし者らの守護者に相応しくと纏う軍装は麗しい。庶民生まれの武骨な図体も、華やかさのない見てくれも、おかげさまで『それらしく』見える。  深い場所の水圧に耐えうる窓――特殊処理が施されているので、外に光が漏れることはない――の向こうに見えるのは、どこまでも暗く暗い深海の景色だ。現在の時刻は深夜。海はまるで夜を溶かし込んだかのような漆黒だ。  男はそれを横目に、日々の退屈な任務である巡回を見た目だけは真面目に行っていく。瀟洒で品の良い赤絨毯には埃一つとて落ちていない。昼間の時間であれば、ラウンジからは無聊を慰める音楽が聞こえてくるものだが、今は夜ゆえ聞こえない。――ここは人間が健康で文化的に生きていくにあたって、何一つ不自由のない場所だった。今この時も選ばれなかった人々は戦禍に苦しめられているというのに。  そうやって今日もまた、戦争から隔絶された楽園のような平和は――  いつまでもと続くのだと、誰も彼もが信じていた。  ――……敵襲を知らせるアラートが鳴り響いた、ところまでは覚えている。  気が付けば、男は俯せに倒れていた。やたら眩しい、のは、顔のすぐ横に照明があったからで。どういうことだ? 床に照明などあったろうか? それよりも頭が痛い……打撲の痛みだ。男は顔をしかめて立ち上がる。そうして気付いた。自分が『天井』に倒れていたことを。  男は目を見開いた。世界が逆様だ――いいや違う、船体がひっくり返っているのだ。それがなぜか、兵隊はただちに理解する――船が大破しているからだ。ゾッとした。まさか。対策は万全になされていたはず。何かの間違いじゃないかと男は通信機を用いるが、応答はない。どこもかしこも。舌打ちをした。  いつの間にかアラートは止まっている。男は周囲を見渡した。眩暈と頭痛が酷い。よほど強く頭を打ったらしい。廊下が赤く続いている。人は見当たらない――いや、後ろに。 「あの……」  そこにいたのは、品の良い身なりをした乙女だった。長くて真っ直ぐなプラチナブロンド、空色の理知的な瞳、はっとするほど見目麗しい顔立ち。しかし――レトロな趣をした臙脂色のドレスも、その艶やかな髪も、すっかり濡れてしまっている。  驚いた男が何かを言う前に、彼女は彼へ顔を寄せた。 「酷い怪我を……!」  そっと白い手が伸ばされて、男の額に触れた。そこは硬い場所にぶつけたのか裂けてしまっていて、血が流れていたのだ。男はその時ようやっと、自分が流血していることに気がついた。けれど起きた事態が深刻過ぎて、負傷をどこか他人事のように感じていた。 「あ、ああ……本当だ」 「頭を強く打っているようです……どうか安静に、座って」  狼狽と表現していいほど心配している乙女にそう促され、男は床と化した天井に腰かける。乙女はその胸元に結わえられていた柔らかなリボンを解くと、「そのままじっと」と男の傷に巻こうとした。 「あなたの服が汚れてしまいます」  相手はどこぞの富豪の娘だろう。身分が違う。だから躊躇われる。しかしそんな兵士の拒否を無視して、彼女は手際よく装飾具を包帯代わりにしてしまった。湿っていて冷たいが、ないよりマシだった。 「……この船はもうダメみたいですね。もう、沈むだけです」  ぽつり、手当てを終えたばかりの乙女が目を伏せる。長い睫毛が、下から射す照明に陰影を作る。 「ええ、そうでしょうな」  なにせ上下逆様になっているほどだ。男は眉根に皺をよせ、深呼吸を一度だけする。目覚めたばかりの頭と心を整理していく。 「警備兵のミチルです。あなたは」 「名前、……リンダと申します」 「リンダ様以外に生存者は」  ミチルの問いに、リンダは悲痛な声でこう言った。 「客室エリアは……攻撃が直撃したのか、酷い有様でした。阿鼻叫喚とはあのような光景を示すのでしょうね」  リンダの服が濡れているのは、浸水が酷い場所から逃げてきたのだろうとミチルは察した。今は深夜。ほとんどの者が客室で眠っていた時間だ。そこに運悪く攻撃が当たるなんて……。 「……」  ミチルは小さく溜息を吐いた。警備兵としての任務を遂行するならば、客室エリアに向かって生存者を探すべきだろう。同時に脱出ポッドが無事に機能するかも確かめねば。 「リンダ様、ついてきて下さい。生存者捜索と、脱出ポッドの確認を行います」 「わかりました。ありがとうございます」  ぱ、とリンダは安心したように笑んでみせる。まるで「ついてこい」という命令を喜ぶかのようだった。こんな状況だ、目的があった方が落ち着くのが人の心だろう。そう思いながら、「こちらです」とミチルは歩き始める。リンダはその斜め後ろをついていく。  ――男は、惨劇をすぐに知ることとなった。  アプカルル号はあちこちが破損し、明かりが途絶え、水浸しになっていた。  床から壁か天井に叩き付けられて死んだ者、浸水した水面に浮かぶ溺死体……あっちこっちに死が転がっている。 「死にたくない……死にたくない!」 「どうして私がこんな目に遭わなきゃならないの!」 「責任者を呼べ!」 「お前がこの船に乗ろうって言ったんだ、全部全部お前のせいだ!」 「痛い、痛い、ああ、足が動かない……誰か助けてくれ、誰か!」 「助けて! 助けて! ドアが開かない……こんなところでひとりぼっちで死ぬなんて嫌ぁあああ!!」  わずかな生存者達は一様にパニックに陥っていた。明滅する照明と暗黒が、人間の心がいかに呆気ないものかを物語る。逃れられぬ死。それが連れてくる恐怖は、計り知れない。  地獄だ――ミチルは傷顔を強張らせる。不安そうにリンダが彼の服を控えめに握った。男はそれを振り解きはしなかった。  だがそれよりもミチルの心を揺さぶったのは。  脱出ポッドのあるフロアへの通路が、完全に水没していたことだ。  ……それでも脱出ポッドへ向かおうとして、息が続かず力尽きたのだろう、溺死体が浮いている。
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