第二話:果ての底のアプロディーテー

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「う、」  死、の気配。兵隊として戦場の経験があるミチルだが、感じたのは戦場のそれとは全く異なる『死』の気配だ。心臓を鷲掴み、血を凍らせる、本能が戦慄してしまうモノだ。  傾いた天井を後ずさる。逃げ延びる手段がない。死ぬしかない。沈む船の中で。もう駄目だ。もう助からない。実感がどこまでも残酷に湧いてくる。心臓が嫌な震えかたをする。そんな状況で、暗闇の向こうで恐慌状態の人々をなだめてまとめたところで何になる? 助けられない。助からない。それどころか、警備兵という『下』の立場だからこそ、パニック状態の彼らがミチルを攻撃し始める危険すらあった。そうなったら最悪だ。 「畜生……マジかよ……」  ずき、と頭が痛む。気持ちが悪いのは頭の痛さのせいか、この状況のせいか。ミチルの顔は真っ青だった。心配そうにリンダが男を見上げる。 「できるだけ安全な場所で休みましょう、とても苦しそうです……」 「……」  そんなことをして何になる、どうせ死ぬのに。……とは飲みこんだ。リンダが男の軍服の袖を引っ張る。ミチルはようやっと、目が離せないでいた溺死体から視線を逸らすことができた。  ●  ――そうして気付けば、ミチルは最初にリンダと出会った通路に座り込んでいた。  頭が痛い。酷く痛む。吐きそうなぐらいだ。鍛えられた屈強な軍人であろうと、死ぬしかない状況を完全に理解してしまうと心が酷く軋んでしまうらしい。通信機はあれからずっと無音で、おそらくこの船の『ブレーン』は海の藻屑となったのだろうと推測する。  隣にはリンダが座っている。「大丈夫ですか」という言葉を彼女は何度も飲み込んでいた。彼が大丈夫ではないのは、見れば明白だからだ。 「ミチルさん、横になられてはいかがです?」 「……そうします」 「膝を貸しましょうか?」  乙女はスカート越しの足をぽんと叩いて気遣うように微笑んだ。ミチルは苦笑してしまう。むくつけき男がやんごとない乙女の脚に頭を乗せるなど、とてもとても憚られた。 「……恐ろしくはないんですか?」  壁にもたれて座り込んだまま、ミチルは問いかける。兵士である彼よりも、眼前の乙女は冷静なように見えた。 「分かりません。……でも、どう足掻いても運命が『死』の他にないこの状況は……とても、悲しいです。これが恐ろしい、ということなのかもしれません」  憂いの表情さえ、人形のように美しい。リンダが俯けば、新月色の髪が一房、はらりと頬にかかった。  そんな状況で今更、ミチルははたと気付く。 「……リンダ様、そういえば濡れた服のままです。ご婦人にこんなことを言うのも気が引けますが、その……俺の上着を貸しますから、着替えられては」  ミチルの図体は大きい。軍服の上着だけでも、乙女にはワンピースのようになってくれるはずだ。下心がないことを伝える為にも努めて真摯にそう言ったミチルを、リンダは真ん丸な瞳でじっと見つめ――ふ、と笑む。 「ミチルさんは優しい方ですね。……名前、リンダでいいです。様って呼ばれると、なんだか距離を感じてしまって……言葉も敬語じゃなくて、普段ミチルさんが喋るような話し方だと嬉しいです」 「はあ、しかし」  親しき中にも礼儀ありとは言う。急にそう言われても、という心地だ。 「じゃあこれは命令です! 敬語は禁止で、私のことはリンダと呼ぶように!」  声を弾ませるリンダが、まるで元気づけようとしてくれているようで――その健気さに、ミチルは迎合することにした。 「わかりま――わかった、わかった、これでいいか?」  降参のように両手を上げると、リンダは満足げな表情をした。 「それで……あー、リンダ。服を……」 「大丈夫です。私、丈夫な子なので。ミチルさんの体が冷えてしまう方が心配です」 「じゃあ、こうだ。アーカイブコーナーが近くにある。そこに確か……膝かけ用のブランケットがあったはずだ。そこに行こう。これでいいか?」 「……アーカイブコーナー?」 「知らないのか? 古今東西の本や論文の電子版が保管されてるんだよ。人類文明を護るためだそうだが」  それもこの沈むだけの船じゃな、と皮肉った。一方でリンダは興味津々といった様子で頷いて見せる。 「私、気になります。行きましょう! ……あ、でもミチルさん、傷は……」 「平気だ。ちょっと座ってたらマシになった」  これは本当だ。さっきまで視界がぐわんぐわんと回っていたが、今は少しだけマシになっている。それは言葉通り「ちょっと座ってたからマシになった」のか、はたまたリンダとの会話が心を少しだけ絶望から引き揚げてくれたからか。  平気だ、という言葉が本当であることを示す為にミチルは立ち上がる。一瞬だけ眩暈がしたが、大丈夫そうだ。「こっち」とリンダを伴い歩き出す。
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