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誠一郎は広い部屋で一人、分厚い本を読んでいた。
一般的に人が想像する部屋のおよそ五倍の広さを持ち、その高い天井を見上げるためには垂直方向にあごを上げなければならない。
もはや部屋と言って良いのか分からないが、それ以外に適切な表現が見当たらないので彼はとりあえずここを部屋と呼んでいる。
深紅のじゅうたんが敷き詰められた広い部屋。
その部屋の中にあるものは、彼が座って読書をしている簡単な机と椅子以外だと、いくつもの石製の円柱状の台座と、その上に一つずつ載る壷(つぼ)の数々だった。
調度品や壁の飾りなど無駄なものは他に一切なく、純粋に台座の上に置かれたものが一番目立つような配置。
ここは、誠一郎の一時的な仕事場となっている、ある大きな屋敷の中の展示室だった。
展示室だけでもこの広さ。さらにここを一般に開放する余裕があるくらいなので、屋敷全体の広さは相当なものだ。広さだけが取り柄の彼のボロ屋も完敗だった。
はめ殺しのガラス窓はさほど厚いわけでもないのに、その構造のためか音をほとんど遮断し、静かすぎるほどに静かだった。ページをめくる音が室内に響いているような気がする。
こんなにも静かである理由は窓以外にもある。彼以外の人がいないのだ。
事前に言われていたように、本当に客が来ない。片手でおさまるほどの数の客、と言うのも今となっては見栄だったのではないかと思うくらい、誰も来ない日もあった。
別に入場料や見物料などを取っているわけではない。儲けようとか何か採算を取ろうとしているわけではなく、言ってしまえば本当にただの道楽の展示だった。自分の自慢の収集物を飾っておきたい、出来れば誰かに見てもらえたら、ということなのだろう。
室内の配置、展示物の管理・手入れまで、ここの管理を一任されている小峰が、初めにいろいろと説明してくれた。
展示物は題を決めて定期的に入れ替えていて、今は「壷」にしているのだという。中でも抜きん出て高価なものを三つほど教えてもらったが、素人目には何が何だかさっぱり分からなかった。小峰いわく、実はこの三つ以外は金銭的な価値はさほどないのだという。でも、これは個人的な考えだけれどと前置きされた上で、古い品物の価値というのはお金ではかられるものが全てではない、ということも教えてくれた。
初めは何かあったらどうしようと緊張していたのだが、その緊張感も一日目ですっかり溶解した。何せ、人がほとんど来ないのだから。
動かない室内の風景、はめ殺しの窓で風もない。無性に動くものが恋しくなって、窓から広がる見通しの良い中庭を眺め、色づき始めた木々の揺れ動く葉などをぼうっと見つめたりもする。
別に本を読んでくれていても良いということだったのだが、あまりの退屈さに持ってきた数冊はあっという間に二周三周読みきり、現在はこの屋敷の本を借りていた。
彼の住む町から車でおよそ1時間走り続けてたどり着いた、流行の洋風建築を導入した和洋折衷の屋敷。玄関には立派な車寄せがあり、外壁は細長い板をいくつも縦に重ねた下見板張り。見上げるとガラス張りの塔屋があった。屋敷内の壁には部屋にも廊下にも腰壁があり、ちらりとのぞいた応接間には石膏飾りが天井に貼り付けられていた。一番長い廊下なんて、短距離走を行えそうなくらいだ。
これが本当に個人の邸宅なのかと疑いたくなるくらいの豪華な屋敷。こんな屋敷を持つことができる人とは、一体どんな職業の人なのだろう。
誠一郎は、歩き回るような仕事だったら迷子になりそうだと思ったが、基本的にこの展示室とあてがわれた客間、住み込みの手伝いの者たち用の食堂や洗面所くらいにしか用がなかったので助かった。
出来事が何もなさ過ぎるということにさえ納得できれば、なんら問題のない仕事だった。こんなことで報酬をもらってしまっては申し訳ないと感じるくらい。
ただ、一つだけ。面倒なことはあった。
「交代しに来てやったぞ。根暗クン」
偉そうな、馬鹿にするような言葉が部屋に響いた。
展示室に入ってきたのは一人の男。ハンチングをかぶり、サスペンダーで吊った動きやすそうな洋風のパンツ姿でまとめている。
整髪油でしっかりなでつけられた七三分けの短髪からは育ちの良さを感じさせる。でも、口元には人を小馬鹿にするような嫌味な微笑が絶えず湛(たた)えられていた。
小峰が「一応、もう一人来てくださる方がいらっしゃいます」と言っていた人。その名を望月(モチヅキ)と言った。
この男、齢(よわい)は一応誠一郎の二つ三つほど下に当たるらしいが、誰に対してもかなり上から来る性格だった。
望月とはどうにも馬が合わなかった。
それは初対面の時から感じていた。何せ初めに言われた言葉が、
「なんだ。劇場関連での知り合いが来るっていうから、多少は見た目のいいのが来るのかと期待してたのに。パッとしない奴だな」
だったのだ。しかも、なんの悪気も無さそうに。
劇場関係での知り合いという説明は一応間違ってはいないのだが、誠一郎は劇場関係者などではない。それに、劇場関係者全員が主役級の役者のように見目麗しいというわけでは全くない。
「ま。ここよりちょっと栄えたくらいの町の劇場なんて、案外大したことないんだな」
そう言う望月は、どうやら自分の見た目を非常に高評価しているらしく、振る舞いがどうにもきざったらしい。しかも、悲しいかなそれはあまり様(さま)になっていない。
望月が本当に格好いいのかどうなのかと問われたら、誠一郎には何とも言いがたい。身なりは高級品で完璧に整えているし、自信にあふれて堂々とはしている。でも、もし彼の目の前に、劇場で主役を張る美形俳優の神矢を連れてきたのなら、きっと裸足で逃げ出すだろうと思う。
初対面の人間にここまで言えるのもなかなかすごいことだが、望月のすごさは止まらない。
「見るからに貧乏人の顔をしている君は金目当てでこの仕事を引き受けたんだろうけど、僕は使命感からだからね。金は二の次だ。一緒にしないでくれたまえよ」
浸るような笑みを浮かべてそう言い切る彼は、小峰の話によると「一応、警備関係の方」らしい。望月に関する説明には必ず“一応”という言葉が付くのが気になるところだ。
そもそも今回の場合、“警備の仕事”などと言えるようなものでは全くないので、使命感に燃えるようなことは特にない。盗難に備えて気を張り詰めさせる仕事というより、日に日に過ぎる時間のことを考えないようにするのが得意になる仕事と言ったほうが良い。正直、仕事と称していいのかすら怪しい。
さらには、誠一郎は自分が駆け出しの作家であることは黙っていてほしいと小峰に頼んだのだが、結果的になぜか無職という設定になってしまい、その件に関してもとても下に見られている。
「君ねぇ。ただでさえもさっとした容姿と暗~い性格なんだから、せめて仕事くらいはしっかりやらないと。まぁ恋愛と違って仕事は、ダサかろうが暗かろうが出来るよ。頑張って、眼鏡クン」
励まされているのか、けなされているのか。
小峰やその他の周りの手伝いの人々は、立場上どうやら望月の横柄な発言をとがめることができないようで、あいまいな苦笑いを浮かべるばかりだった。一体どうしてこんな人を雇うということになったのだろう。
展示室の開場時間を昼過ぎあたりで区切り、もっぱら午前の時間を誠一郎が、午後の時間を望月が見ることになっている。別に、人と分担するような仕事ではないのだけれど。
よく分からない使命感に燃えている望月は、「僕に万が一のことは無いけれど、君の担当の時に何かあったら君だけの責任だからな!」と念押ししてくる。
彼と顔を合わせるのは交代の時や、食事をとる時くらいなのだが、合うたびに何かしらズバズバと言ってくる。
今日もまた、交代に際して、望月に上からものを言われるのだった。
「まーたそんな分厚い本を読んで。さらに目が悪くなって、今にビンの底みたいなレンズをつけないといけなくなるぞ。そうしたら今よりもっと見てくれが悪くなるな。ハッハッハ」
返事代わりに会釈だけして部屋を出て行く誠一郎に、
「相変わらず陰気だなぁ」
と、望月は言葉をこぼした。
展示室を出た誠一郎は一人、立派な寄木張りの廊下を歩きながら考えていた。
望月の言うことはけして間違ってはいないのだ。自分はパッとしないし、暗いし、見た目だって良くない。自分でも分かっていることだ。
ただ、時に、事実をそのまま口にすることは人を不快な気持ちにさせる。
ここに来てからというもの、望月の言葉で客観的な自分の評価を毎日毎日再確認させられている。
自明なことを言われてそれに怒るのも何となくみじめな気がするので、とりあえず全て受け流してはいるのだが。受け流していたら受け流していたで、日に日に望月の口撃が増長している気もする。
まあ、これから一生付き合い続ける相手ではないし。誠一郎はそう思うようにして、望月の存在や言葉になるべく心の焦点を合わせないよう努めていた。
それでもやはり、こうして自分の現実をたびたび突きつけられると、椿月がこんな自分を選んでくれる可能性の低さを改めて実感してしまう。
沈みはじめた思考。誠一郎は強引に舵を切る。
そういえば。今まで女性に贈り物などしたことがないが、一体どういったものを選べばよいのだろうか。
数少ない知人・友人の中でこういった相談ができそうな相手といえば神矢が思いつくが、彼はあまりに椿月に近い。それに、庶民の金銭感覚とはかけ離れた提案をされかねない。
そんなことを考えながら、自分の客間に行くため階段を上っていく。
すると、踊り場の壁をへこませて作られたささやかな空間に、何かキラリと光るものが飾られていることに気が付いた。
今朝まではたしか古そうな扇子が飾られていたので、恐らくここも定期的に飾るものを入れ替えているのだろう。
そう思って誠一郎が見つめた先には、金細工のほどこされたかんざしが飾られていた。きっと相当に古いものだとは思われるが、古さを気にさせない気品と高級感があった。
「精巧でしょう。先ほど私が飾ったのです」
突然かけられた声に階上を見上げると、小峰の姿があった。手すりをしっかりつかんで、一段ずつゆっくり階段を下りてくる。
「展示室の方はどうですか? たまに顔を出そうとは思っているのですが、離れの新しい展示室の準備にかかりきりになってしまって……」
踊り場まで下りてきた小峰の問いかけに、誠一郎は簡潔に答える。
「特に問題ありません」
仮に文句を言うなら、退屈すぎることくらいだ。
すると小峰は唐突に声を落として、言いにくそうにこう詫びた。
「あと、その……望月さんのこと。いろいろとご迷惑おかけしてすみません……」
望月は誰に対しても上から偉そうに言ってくるが、今やその横柄な発言を誠一郎が一手に引き受ける形になっている。良くも悪くも何も反応しないので、言いやすいのだろう。
小峰や他の手伝いの者たちが表立って望月を注意することができない事情がある様子なのは、誠一郎もなんとなく察していた。
だからかこうして、本人が居ない時に謝られることが何度かあった。
なぜ彼のような人を雇うことになったのかは心底疑問ではあるが、小峰たちが詫びるようなことではない。
誠一郎はそれらの考えを上手く説明できる気がしなかったので、目の前のかんざしに話題を移すことにした。
「……こういったものも、骨董品として飾ることがあるんですね」
すると、古いものに目が利く小峰が、素人にも分かりやすいように砕いて説明してくれる。
「ええ。かんざしはその細工や意匠、材質などによってとても高価なものもあって、こういうものは観賞用としても価値があるんなんですよ。これはきれいに保管されている方ですが、結構古いものなんですよ」
誠一郎は改めてかんざしを見つめた。
どのように作ったのか想像もつかないほど繊細な模様をえがく金細工は、立体的な蝶と花をかたどり、所々に光る小さな石がちりばめられている。たしかに鑑賞に堪えうるものだ。
それにこういうものは、どのような人によってどういう気持ちで作られたのか、どのような人がどういう気持ちで贈り、どういう人がどういう気持ちで受け取ったのか、そして使っていたのか。この品物に関わった人々の思いに気持ちを馳せさせてくれるような気がする。
そう考えると、使い込まれた年季やキズも、過ぎた時間を語る錆も、それも込みで見ていられる。
誠一郎は、古いものを大事にそばに置いておきたい人の気持ちが少し分かった気がした。
不意に、小峰が解説を足す。
「そうそう。昔は女性にかんざしを送ることが、求婚の意になっていたそうですよ」
その言葉に、誠一郎は思わず動揺してしまう。反射的に何を想像したのかは説明するまでもない。
それを悟られたのか、「ふふ」と優しげに笑われた。
「若いということは素晴らしいですね」
小峰が漏らした言葉に、誠一郎は頬をほのかに紅潮させたまま、なんと返してよいか分からなかった。
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