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「これからしばらく、会いに来られません」
突然告げられた言葉に、椿月はその大きな目を何度かまたたかせた。
つい最近訪れたはずの秋はあっという間に夕刻を短くし、早くも劇場の外灯を灯らせている。
宵闇の中、きらびやかに染め上げられた劇場。夜公演を待つ楽屋の、ある一室。
端的にそれだけ伝えた誠一郎に、椿月が戸惑いながら尋ねる。
「ええと……何かあるの?」
「はい。ちょっと所用で」
彼がそれ以上のことは口にしなかったので、椿月の中にはえも言われぬ心地の悪さが残った。
勉学を想起させるような銀縁の丸眼鏡。着られればなんでもよいとばかりに年季の入った着物の中に立ち襟をのぞかせ、着古されたようなくすんだ色合いの袴をまとったこの男。名は深沢誠一郎(フカサワ セイイチロウ)と言った。
普通の男より頭ひとつ高い長身であるし、その体躯も細すぎるわけでも太すぎるわけでもない。それなのに、彼は今ひとつ洗練されない野暮ったい雰囲気をまとっていた。
きっとそれは服装や顔立ち云々(うんぬん)のせいだけでなく、これまで長いこと見てくれをまったく気にせず生きてきた結果なのだろう。
駆け出しの小説家である彼は、弟子時代に巻き込まれたある事件をきっかけに、この目の前に立つ若手舞台女優・椿月(ツバキ)と知り合った。
主に妖(なまめか)しい悪女の役として劇場で活躍する椿月。形の良い唇を艶めくように濃い口紅が彩り、胸元には大ぶりの宝石のあしらわれたネックレス。悪趣味なまでに主張が激しい。
まとう細身のドレスは女の曲線を大胆にえがき出し、体の隆起をなぞるように生じるドレープには妖艶さが宿る。
栗色の髪を顎のラインの辺りで挑戦的に短く整えており、切り揃えられた前髪のおかげで瞳の印象がより一層強く感じられる。
細い鎖骨に、ドレスから伸びるしなやかな腕。輝くような白い肌を惜しげもなくさらしていた。
ただ、この派手な姿は舞台に出るときのそれであって、本来の彼女とは全く異なるものであった。
化粧を落とし、舞台用のかつらを外し、髪にリボンを結んでいつもの落ち着いた袴姿になれば、年相応の清純な娘の姿に戻る。
少女と呼ぶには大人びていて、女と呼ぶにはまだあどけない彼女。
普通の娘のようでいて、近くをすれ違うと思わず振り返ってしまうような可憐さを持っていた。
しかしながら、彼女のこの本当の姿を知る者はほんのわずか。そしてそのわずか数人の中に、誠一郎も入っていた。
これまで二人はどちらからともなく定期的に出かける約束を重ね、親交を深めてきた。最近では月に数度、誠一郎が観劇のためでなく彼女に会うために劇場を訪ね、二人のささやかな時間を共有している。
しかし、二人は恋人関係というわけではない。傍目にはそう見えているとしても、本人たちにその意識はなかった。
誠一郎は、自分が彼女に惹かれていることを自覚している。
彼女と居るとわけもなく気持ちが高まるし、一緒にいる時間がもっと長く続けばいいのに、と常々思う。彼女に合わせて変わっていく自分の思考、行動。会っていない時も彼女のことが思考を占めるようになってようやく、このどうにも持て余す気持ちが彼女への恋愛感情なのだと理解した。
一人前の男としてはかなり遅い初恋。しかもその相手は、冴えない見た目の駆け出しの作家には非常に分不相応な人だった。
彼もこれまで、その事について何も考えて来なかったわけではない。
誠一郎が心の中である考えを固めた頃に、ちょうど“ある話”が舞い込んできた。
それは、一週間ほど前のこと。
椿月を訪ねて昼下がりの劇場にやって来た誠一郎を、珍しくこの劇場の館長が呼び止めた。
「深沢くん。ちょっといいかな」
ライオンのたてがみを彷彿(ほうふつ)とさせるような髪型に、優しい性格を表すようにいつも穏やかな表情をたたえている館長。大柄な体はその立場ゆえ、かっちりしたスーツやタキシードに包ませていることが多い。
今までこの劇場に関連するいくつかの問題を解決する手助けをしてくれた恩人として、館長は誠一郎にすっかり気を許している。
一般客の一人でしかないはずの誠一郎がこうしてたびたび椿月の許(もと)に会いに行かせてもらえるのも、館長の裁量がかなり影響しているはずである。
ちょうどそのくらいの年齢差ということもあり、館長は椿月のことを娘のように思っているようだ。それに椿月も館長に対し、父のように心を許しているように見える。
「来たばかりのところ申し訳ないね。実はちょうどお客さんが来ていて。ちょっと深沢くんに聞いてもらいたい話があるんだけど……」
そんな、劇場での椿月の父のような存在である館長の頼みを断るわけがなく。誠一郎はそのまま館長室に招かれることになった。
先客は館長室内に設けられた応接間のソファに腰掛けていた。誠一郎の姿を確認すると、立ち上がって会釈をした。反射的に誠一郎も頭を下げる。
「はじめまして。私が館長さんに頼んで、あなたを呼んでもらいました」
顔を上げて改めて観察するその人物は、まったく見覚えのない小柄な老人だった。細められた目は、穏やかそうな人柄を物語っている。
推定される年齢の割りに豊かな毛髪は、すべて真っ白で後ろになでつけられている。身なりも、ズボンや紐タイ、チョッキなど服自体はさほど高いものではなさそうだが、きちんと整えられ清潔感がある。隠居している同年代も多いだろうに、彼は腰は大分曲がり始めているものの、しっかりとした現役の雰囲気をかもし出していた。
誠一郎は自分の人を覚える記憶力はかなり悪い方だという自覚があるが、「はじめまして」という相手の言葉からするに、本当に初対面なのだろう。同じように挨拶を返した。
互いにソファに座って相対すると、小柄な老人は「小峰(コミネ)と言います」と名乗った。
「突然の話で申し訳ないのですが、あなたに依頼したい仕事があります」
初対面の人間に名指しで仕事を依頼されるようなことなどまったく心当たりがない。誠一郎は黙って話を聴いた。
「私はここから少し離れた町にある、とある大きなお屋敷で住み込みで働かせてもらっています。そのお屋敷の旦那様の趣味が骨董品集めでして。お屋敷の部屋の一部を一般に開放して、旦那様自慢の収集品を飾った小さな美術展のようなものをやっているのです。私は多少古い物に目が利きますゆえ、その展示室の管理を任されております」
話を聴きながら誠一郎は、骨董品集めだとか、収集品を展示とか、屋敷の一部を開放だとか、桁違いの金持ちの家の話がどう考えても自分に結びつかないと思っていた。
「このたび、旦那様のご意向で本邸だけでなく離れにも展示室を設けるということになりまして。その新設する展示室の手配などで、私が本邸の展示室にいられない時間がかなりできてしまいます。高価な品物もありますので、開放中さすがにそこを無人にするわけにはいかず、旦那様は『必ず誰かしら人を置くこと』とおっしゃっていまして。それで、そこを見ていてくれる人を探しておりました」
何となく話は見えてきたが、腑に落ちない点は多々ある。
誠一郎は口を開いた。
「そのような大きなお屋敷の方がおっしゃる“高価な品物”ということは、本当にかなりの値がするものですよね。そうなると、“見ていてくれる人”というよりほとんど“警備する人”に近いのでは? そういった専門の方に依頼するのが一番だと思うのですが」
彼の意見に、小峰は「いやいや……」と首を横に振る。
「たしかに一部かなり高価な品物もありますが、本当に大したことではないのですよ。展示室とは言っても、一日の来客数が片手で収まることがほとんどの寂れたものです。普段など、この年寄りが一人でぼうっと座っているだけなのですよ。言葉は悪いかもしれませんが、展示室が無人にならないよう形ばかり誰かが居てくれたら良いというだけなのです」
小峰はさらに言葉を重ねるが、今度は少し声量が落とされる。
「それに、専門の警備の方をお呼びできるような予算は旦那様からいただいておりませんので……。一般の方でどうにか、頭の切れそうな人に来てもらえないかということで……」
ばつが悪いのかハンカチで頬や額を拭いながらそう話す小峰。
要するに、屋敷の主人の考えとしては、ほとんど盗まれたりする危険性はほとんど無いだろうから余計なお金は掛けたくない。けれど、無人にするのは怖い。万が一何かが起こったときの損失が大きすぎる。一般人で何とか対応してもらえないか。できれば見張りに向いていそうな人で、ということなのだろう。
誠一郎は頭の中でそう整理した。
しかし、一番の疑問が残る。
「それで、なぜ僕なのですか?」
小峰は糸のように細い目を出来るだけ開くようにして、誠一郎の目を見つめた。
「はい。実は私、この町には縁あってわりと頻繁(ひんぱん)に訪れておりまして。以前に訪れた際、この劇場でのある騒動を目撃しました。あなたが警察の方相手に毅然とした態度で立ち向かい、優れた観察力で少女の冤罪を晴らした一件です」
“毅然と立ち向かう”“優れた観察力”などと言い飾れるような立派なものではまったくなかったはずなのだが。だいぶ美化されているようだ、と誠一郎は思う。
あの一件のことは誠一郎もよく覚えている。傍目にはあまりばれていなかったようだが、忘れようがないくらい緊張していた。口がカラカラに渇き、ともすればその場に倒れこんでいたと思う。後先考えず椿月と少女のためにと、がむしゃらに起こした行動だった。むしろ、そのくらいの勢いがなければあんなことはできなかっただろう。
「今回旦那様に言われて人を探すことになったとき、あなたのことをすぐに思い出しました。以前に少々縁があり面識のあった館長さんに頼んで、あなたのことを紹介してもらったのです」
誠一郎は、小峰があの時の自分を期待して雇いたいと言っているのなら、大いに落胆させてしまう可能性があると説明した。
「僕はぜんぜん頭が切れるような人ではないですし、あの時のあれはまぐれと言うか……本当に珍しいことだったんです」
それでも小峰は折れない。
「先ほども申し上げましたが、本当にそんな重圧を感じるような仕事ではないのですよ。それに、あなた以外にもう一人来てくれる方が居るんです。その方はまあ一応、警備関係は専門というかなんというか……」
肝心のもう一人の人物に関する説明で言葉尻を濁したのが気になったが、それよりも、誠一郎はその後に提示された数字に目を見開くこととなった。
「お屋敷のある場所はこの町からはだいぶ距離があって通っていただくことが難しいので、期間中は客間の一つに泊ってもらうことになります。その間の食事等は全て提供します。あと、館長さんから少しうかがいましたがお仕事は文筆業をされているそうで。仕事がない時は執筆作業をしていただいていて構いません。それで、期間中の謝礼は合計このくらいの金額でいかがでしょうか……?」
先ほど小峰は「専門の方が呼べるほどの予算はもらっていない」と言っていたが、そういったことに詳しくない誠一郎からすると、十分すぎるのではないかと思えてしまう金額だった。
文字通り、金に釣られて心を動かされているわけなのだが。
誠一郎は考える。ただいつものように家にこもって小説を書いていても、この金額は発生しない。この仕事を引き受けることで、これだけの金額が手に入ったなら。
しかし、自分に警備の真似事のようなことができるのか。もし何かあったりしたら責任を取ることができるのか。いや、でも小峰はそんなに重圧を感じるような仕事ではないと言っているし。
誠一郎がこれだけ悩むのには理由があった。
今までの自分なら、「そういうことは僕にはできないと思います」と、いくら良い金額を提示されてもすっぱりと断っていただろう。
しかし今の誠一郎には、心の中で決意していたことがあった。
椿月に何か贈り物をして、正式に交際を申し込みたい。
今のつかず離れずの二人の関係が、いつまで続いてくれるのか。自分では収めようのない不安が、ここ最近彼の心を静かに侵食していた。
見た目も中身も、地位も財産も、人より優れたところなどひとつも見当たらない。何ひとつ魅力などないのに、会って話してくれるのはなぜなんだろう。そんなことを考えはじめていた。
今の状況が、あの初めて会った日に彼女が興味本位で声をかけてくれたような気まぐれによってもたらされているとして、その彼女の気まぐれが終わってしまったらどうしよう。
付きまとう不安を消したくて。非常に不釣り合いな自分ではあるが、それでも、彼女とのつながりを確かなものにしたかった。
今まで恋愛経験など片思いすら皆無、色恋の話に混ざったことさえない彼にとって、交際を申し込むことなど空想の世界の話とほぼ同じだった。
想いを寄せる女性に何を贈ったらいいかなどまったく想像がつかない。
だが、女優という椿月の立場、小耳に挟む俳優の私生活の水準、劣っている自分、それらをいろいろと考慮すると、かなり高価なものを贈らなくては釣り合いが取れないのだろうなとは考えていた。
そうなると、結構なお金が必要になるわけで。
だからこそ誠一郎はこの小峰の仕事の依頼を、畑違いだからとすっぱり断れずにいた。
結局その後、そこからさらに細かい話を聞いたあと、誠一郎はこの依頼を引き受けることを決めたのだった。
何よりも高額の報酬に惹かれてということは言うまでもない。
そして冒頭の会話に繋がるわけなのだが。
誠一郎は椿月に、この仕事を引き受けた話を一切しなかった。
もしかしたら何かを感づかれてしまいそうな気がしたのと、あとは単純に何となく気恥ずかしさがあった。
誠一郎は楽屋を後にする前に、椿月にさりげなくこう尋ねた。
「ところで……椿月さんは今、何か欲しいものや好きなものはありますか?」
何の脈絡もない突然の質問に、椿月はきょとんとした表情で不思議そうに首をかしげるだけ。
だが、そこで「ああ」とピンと来ていた人物が一人だけいた。
ここは椿月の楽屋だが、自分も誠一郎と話したいからと押しかけてきた神矢が、少し離れたところで新聞を読んでいた。
女性を中心に人気の美形俳優・神矢辰巳(カミヤ タツミ)。
スラリと伸びた長い脚をテーラーメイドのスラックスで包み、糊の利いた白い襟付きのシャツに胸元のスカーフのえんじ色が映える。
ゆるいウエーブをえがく髪は、男の体格に似つかわしくない繊細なイメージを与えさせる。涼しげな垂れ目がちの目元はつり気味の眉がきりりと締め、日本人離れした高めの鼻梁はすっと通っている。
まだ若手と分類される経歴ながら、主役を務めることも多い彼。それは彼の演技の実力もさることながら、圧倒的に優れた容姿が物を言っていることもまた間違いなかった。
年齢的に神矢は誠一郎と同じくらいなので、椿月は年下にあたる。だが、ほぼ同じくらいの時期からこの劇場に所属するようになったいわば同期のような関係にあたるため、神矢と椿月の関係はかなり砕けたものだった。
誠一郎とは、椿月を通じて知り合ったばかりの頃は微妙な距離感だったものの、最近ではよく家を訪ねたり、本の貸し借りをするような関係だ。
そして今や、椿月と誠一郎の手探りの歩み寄りを一番近くで見せられている人、と言って間違いないだろう。
少し離れてやり取りを見守っていた神矢は、今までの誠一郎の言葉から、彼が椿月に贈り物か何かをするためにどこかへ働きにいくのではないかと、ほぼ正解の推測を導き出していた。
「特になければ、別にいいんです。忘れてください」
誠一郎はつば付きの帽子をかぶり直す。
「それでは」と夜公演の準備の邪魔にならないよう早めに楽屋を去った誠一郎の背を、何も訊けないままの椿月が数歩、名残惜しむように追いかける。
神矢は心の中でため息をつく。あーあ、あんな顔させちゃって、と。
せめて何のためにどこでどうするのかくらい言ってやればいいのに、と神矢は思う。
今の妖艶な悪女の姿にはとても似つかわしくない、寂しさと不安が入り混じった椿月の顔。
その瞳は、去っていく誠一郎の姿を見えなくなるまで見つめ続けていた。
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