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 誠一郎がいつものように椿月に会うため劇場を訪ねたとき。出演者楽屋などが並ぶ関係者通路一帯はやけに人の出入りが多く、慌しかった。  各所から「あったか?!」「書類庫も全部開けて探して! 衣装室も!」などと、焦りに追い立てられている声がする。  一応は館長に許可を得てここまで来たものの、これだけの取り込み中なのであれば出直したほうがいいだろうか、と思ったのだが。 「誠一郎さん?」  立ち尽くしていた誠一郎に声をかけたのは、劇場での姿をした椿月だった。  首筋が露(あら)わになる長さで切り揃えられた栗色の舞台用かつらを身につけ、化粧に彩られて素顔を忘れさせるほど大人びた顔。  今日は舞台用のドレスではないが、優美さを感じさせるサテン地のワンピースに身を包んでいる。むき出しの細い肩を寒さからかばうように、厚手のガウンが羽織られていた。  椿月は本当の姿を劇場関係者にもほとんど明らかにしていないため、たとえ出演出番がない時でも、劇場では普段からこの姿でいることが多い。  誠一郎は挨拶代わりに会釈してから、 「何かあったんですか?」  と尋ねる。  周囲の慌てぶりとは対照的に椿月は落ち着いていて、彼女はこの騒動とは無関係なのだろうとは察せられた。 「劇場で保管していたある台本が、数頁(ページ)失くなっちゃったんですって。多分、持ち運んだり作業したりしてるときに、知らぬ間に抜け落ちてしまったんじゃないかと思うんだけど」  それだけでこんなに大勢が慌てふためくものだろうか、と誠一郎が疑問に思っていると、椿月が言葉を続ける。 「実はそれ、今度ほかの劇場と合同でやる舞台のものなんだけど、今日が台本をお渡しする日なのよね。しかも、わざわざあちらの看板役者さんが、挨拶がてらここまで受け取りにいらしてくださるらしいの」  そこまで聞いて、ようやく劇場関係者らの慌てぶりが理解できた。 「でも、台本の原本はあるんですよね? それを急いで書き写せば良いのでは?」  至極当然の疑問に、椿月は首を横に振る。 「それがね、原本が英語の洋書なのよ。前に翻訳家の方に頼んで日本語にしてもらったそうなんだけど、それごと失くなってしまったみたいで」  そう言って彼女は、真っ赤な唇を憂鬱そうにとがらせる。  なるほど、たしかにそれは人手を総動員して死に物狂いで探すしかないだろう。誠一郎はそう思った。  だが同時に、もう一つの救える手立てを自分が提示できることも分かった。 「あの。数頁ならここでやりますよ」  その唐突な言葉の意味が分からなくて、椿月は彼の顔を見上げて小首をかしげる。 「辞書と、部屋を貸してもらえるなら、その失くなった頁の分だけ訳します。間に合うかは分かりませんが」 「あなた、そんなことできるの?」  まばたきで長いまつげを何度も揺らしながら、見つめる視線の先の彼に尋ねる。 「話せませんし、聞き取れませんけど、読み書きなら多少は」  誠一郎の申し出に、椿月はすぐに周りの劇場関係者に声をかけた。  周りは渡りに船とばかりに彼の提案を歓迎し、あれよあれよという間に形が整い、それから誠一郎は数時間がっつりと劇場の一室に缶詰になることになった。  休憩をはさむことなく作業しつづけたが、結局仕上がったのは期限時刻直前のことで、周りの人間たちはずいぶん肝を冷やされたようだった。  誠一郎も、職業柄、机に向かって一つのことを作業し続けるのは苦手ではないが、それでも扉の外から感じる重圧にはかなり神経をすり減らされた。  結局この日は、この騒動に大半の時間を割かれ、椿月とはほとんど話すことができないまま帰ることになった。  久々に会うことができたというのに残念ではあったが、それでも、椿月の活躍する大事な劇場の助けになれたし、何より彼女に「ありがとう。とても助かったわ」と感謝してもらえたのでそれはそれで良かったのだが。  その日の暮れ。  所用で劇場を出ていた神矢が、誠一郎と入れ替わるように戻ってきた。  神矢は控え室で今日の騒動の話を椿月から聞くと、驚いて目を見開いた。 「え。じゃあこれ全部、先生が訳してくれたのか?」  机の上に広げられた何枚かの紙を拾い上げ、神矢はまじまじと見つめる。 「『読み書きなら多少はできます』って言ってたわ」  傍に座る椿月が何の気なしに、言われた言葉をそのまま答えるも、神矢は「いやいや」と言葉を挟む。 「こんなの“多少”で出来るものじゃないだろ」  パラパラと紙をめくりながら、神矢はつぶやく。 「うわ。センセーって、めちゃくちゃ達筆なんだな……。書道でもやってたのかな」  紙には誠一郎が書いた文字が数多く羅列してあるが、悩みながら文章を組み立て、時間に追われてもいたというのに、急ぎながらも確かにその文字は形が整っている。  神矢の言葉に椿月も改めて横から覗き込んでみる。椿月は正直、どういう字が上手くてどういう字が上手くないのかという違いはあまりよく分からないのだが、そんな彼女でも、周りの人や自分のそれと比べて、彼の筆遣いが達者であることは何となく感じられた。  神矢は紙の束を机上に戻すと、腕を組んで首をかしげる。 「深沢センセーってさ、何もないようでいて意外と謎が多いよな。外国語も書道も独学じゃ限界があると思うけど、暮らしぶりを見てると、そんなに裕福とかってわけでもなさそうだし」  ウウムと目を伏せて考え込む神矢だったが、椿月はその疑問に乗るつもりはないようだった。思案するようにに少しだけ眉をひそめてみせたが、それでも穏やかな表情のまま、こう語る。 「うーん……。そうね、そうなのかもしれない。でも、私はね、全部をさらけ出すことだけがすべてじゃないと思うの」  彼女の言葉に、神矢は閉じていた目を薄く開く。  思い出すのは、椿月と初めて出会った頃のこと。木々が色づき、木枯らしが吹く、ちょうど今くらいの季節。  あの頃の、彼女は。 「……まあ、そうだな」  懐かしい昔の一場面を想起した神矢の口から、自然と同意の言葉が出てくる。 「私も、思い出したくないことや言いにくいことはあるし。それでも、誠一郎さんといる時間が……好きだし……」  最後の方は、自分でも言っていて恥ずかしくなったのか、ごにょごにょと聞き取れないような小声になる。  誠一郎と椿月の双方から本音を聞いている神矢としては、内心で「俺じゃなくて本人に言えばいいのに」と呆れていた。  椿月は、癖のように手の中でもてあそんでいたベロア地の小さな巾着を、両手で抱くようにそっと握りしめる。布越しに硬い手応えがする。  袋の存在に気づいた神矢が、空気を変えようと話題をそちらに逸らす。 「それのお返し、するんだろ?」  椿月はほんのり耳と頬を赤くさせると、「うん」と控えめにうなずく。大人の色香漂う女優の姿に似つかわしくない、本当の彼女が顔を出す。  おもむろに巾着の中から取り出したのは、美しいとんぼ玉が飾られたかんざし。中には金箔やら何やらが贅沢にあしらわれている。 「何度見ても高そうなかんざしだな……」  神矢がそう言うのももっともなことで、たしかにこれは相当に高価な品だ。駆け出しの作家に過ぎない誠一郎が自分の財力で贈れるような品物ではない。  これは、色々な縁があり、椿月のもとに誠一郎からの贈り物としてもたらされたものだ。厳密に言うと直接的に彼が贈ったわけではないのだが、それでも結果としては彼がくれたものということに代わりはない。  誠一郎は事情を詳しくは語らなかったが、椿月としてはこれは、彼が何かをした代償として自分のもとにやってきた物だと確信している。  彼からもらった大事な贈り物を、なるべく傍に置いておきたくて。かんざしを挿すことができない劇場内でも、こうして小袋に入れて衣服の下に隠したりしてこっそり携帯している。人に知られたら気恥ずかしいので隠していたのだが、ずっと巾着を持ち歩き、何度もそれを眺めたり触ったていたため、神矢にはすぐ気づかれた。 「ねえ。男の人への贈り物って何がいいのかしら? 私、今までこういうことしたことないから、全然分からなくて」  事情を知る唯一の人、しかも誠一郎と同年代の男性として、椿月としては神矢の意見を頼りにしたいところなのだが。 「だから、俺が前から言ってるように、自分を丸ごとってのが一番――」 「もう、辰巳のバカ」  大人びた顔を少女のように赤く染め、彼の軽口をたしなめるしかない。  そんな恥じらう彼女を見つめながら、ずいぶん元気になったものだと、神矢は彼女の過去の姿を重ねながら思った。
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