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「本当の君とでないと、私は演(や)らない」
繁華街の往来のど真ん中で、周りの視線も気にせず、椿月のたおやかな手を両手で握り、男が言う。
まっすぐ見つめる意思の強い黒々した瞳。目鼻立ちのはっきりした、舞台映えしそうな顔。男らしく浅黒い肌。凛とした太い眉。
まるで物語の世界のような美男美女の一場面を、周囲は思わずぽうっと見つめてしまう。
その沢山の視線の中には、ある一人の青年のものも含まれていた。
彼の名は深沢誠一郎。目の前の男が手を握る女性へ思いを寄せる、駆け出しの小説家だった。
今、椿月の在籍している劇場では、ある他都市の劇場との看板俳優を交換しての公演が行われていた。互いの劇場の宣伝にもなるし、新しい客を呼び込むこともできるという利点があり、前々から予定されていたものだった。
こちらからは、まだ若手に分類されるものの女性からの圧倒的人気と知名度を誇る美形俳優の神矢が行った。こちらの劇場をたった一人で代表して行くようなものなので相当な重責を担うわけだが、彼ならきっと立派に務めを果たし、一回り成長できるだろうと館長は思ったのだ。
入れ替わりでこちらに来た俳優は、神矢よりも背が高く、体格も引き締まった筋肉質で、しっかりとした雄々しい存在感のある男性。神矢が優男的な線の細い美形なら、対する彼は落ち着いた大人の男。男性性を象徴するような力強い男らしさが彼の魅力だった。
その男の名は、天崎 忍(アマサキ シノブ)。
濡れたような艶のある黒髪を整髪油で後ろに撫でつけ、長身を白いスーツに包んでいる。派手な色のスーツも彼自身の存在感が見事に御し、嫌みなく着こなしていた。
この劇場にやってきた彼は、いつも愛用している白い山高帽を外すと、まっすぐな背骨を想像できるくらい姿勢のいい背中を曲げて、「短い間ですが、よろしくお願いいたします」と渋みのある低い声で、紳士然として、劇場一同の前で深く頭を下げた。自然と拍手が沸き起こるほど、完璧なふるまいだった。
この主演交換の舞台にいつものように得意の悪女役で出演する予定だった椿月は、いつもの短い栗色のカツラと、大人の色香漂う化粧とドレスで彼を迎えた。
今回の劇はラブロマンスで、天崎演じる青年実業家と、純朴な女学生の身分差恋愛をえがくのだが、その恋路を邪魔して二人を引き裂くのが彼女の役目である。青年を色気で誘惑し、女学生を虐げ、互いを誤解させる。
稽古が始まって数日。存在感のある天崎が魅せる演技力や熱量に圧倒されながら、こちらの劇場も負けてはいられないと、いつもより熱のこもった稽古が続く。
天崎の滞在日程の兼ね合いもあり、稽古の予定は連日朝から晩までかなりみっちりと組まれていた。
そんなある日のこと。めったにない午後の休みを利用して、椿月と誠一郎は会う機会を設けていた。
誠一郎も最近は、連載など仕事量が急に増えたことにより、以前のようにはなかなか自由な時間を作れなくなっていた。
しかしそれでも、椿月に会うためとなったら話は別だ。何を削ってでも会いに行く。
二人はいつものように街中で待ち合わせた。
久々に会えた喜びに、遠慮がちに歩み寄る二人。今日はこれから日没までずっと一緒にいられるのだと思うと、そのことを口に出して共有せずとも、胸が弾んだ。
ただこの二人、ここまで同じ思いを心の中で寄せ合いながら、未だきちんと気持ちを伝えあってはおらず、いわゆる正式な交際には至っていない。
誠一郎も一時はそれを焦ったこともあったが、互いに近くにいられる今の状況をまずは大切にしていこうと、思い直すようになっていた。
舞台上では話に刺激を与える悪女の役として、妖艶な化粧と派手なドレスで着飾る椿月だが、普段の姿はそれとはまったく異なる。長い下ろし髪に可愛らしい桃色のリボンを結い、花柄の着物に合わせた紫紺の袴姿に、編み上げ靴。年相応の娘として彼との時間を過ごす。
そしてその顔は普通の娘と言うにはあまりに整った可憐なもので、すれ違う人たちの視線をたびたび集めるのだった。
誠一郎もまた、舞台の時の彼女も変わらず同じ彼女と思い接しがらも、わずかな人しか知らない彼女の素顔と過ごせる時間を貴重なものとしていた。
ただ誠一郎は、彼自身も十分に自覚していることではあるが、率直に言って容貌が冴えている方ではない。身なりだって金がかかったり洗練されているわけではない。彼女が集めた周囲の視線がそのまま隣の彼に向き、彼女の隣を歩くのがなぜこの男なのかと不思議がって終わることもしばしばある。
季節は冬の真っ只中。和服姿の二人は厚手の羽織を外套代わりに、首には襟巻。椿月は手袋まではめて、お出かけの準備は万全だ。頬がほのかに朱に染まっているのは、寒さのためだけではない。
そんな二人が、待ち合わせたあと歩き出してすぐのことだった。
椿月は視界の端にある人物の姿を認めた。それは一人颯爽と街を歩く天崎だった。長身に加え、派手な白スーツと、同色の山高帽を着用していて目を引くのだ。
その時。たまたま天崎が鞄を持ち替えて、その拍子に小銭入れを落とした。
それを見ていた椿月は、誠一郎に「ちょっと待ってて」と告げると、天崎の許へ駆ける。
大事な落とし物を拾って追いかけるも、脚の長い天崎の歩みは速く、追いつけそうもない。
「天崎さん」
だからとっさに、呼び止めようとしてうっかり名前を口にしてしまった。
いつも劇場で天崎と接している彼女は、今の姿の椿月ではないのに。
自分の名前を呼ばれて振り返った天崎は、目の前の見知らぬ娘に不思議そうに驚く。親しげな口ぶりは、ただファンが声をかけた時のそれとは違うと分かる。ましてやここはいつもの自分の本拠地とは離れた土地。そう顔をさされることもないはず。
怪訝な面持ちで、
「どうして私の名を?」
と、その低い声で問う。
「あ……ええと……」
天崎の射るような視線をまっすぐ向けらられて、思わずたじろぐ。どう弁明しようか悩む。
だが次の瞬間には、天崎は彼女の漏らした声ですぐにその正体を察していた。
「その声は、まさか……君は椿月くんか?」
そう自分で言いながらも信じられないのか、天崎は目を見開いていた。
それも仕方のないことで、椿月は演じている役と素の姿の間にあまりに隔たりがある。もちろんそれは見た目の切り替えだけでなく、彼女の演技力があってこそ成せる業なのだが。
ばれてしまっては仕様がない。やむを得ず、椿月はそれを認めるうなずきを返した。
「劇場の皆さんにはあまりお話していないことなので、どうかご内密に……」
天崎はそんな椿月の言葉のさえぎって、彼女の手を取る。まっすぐ視界の中心に彼女をとらえて、
「君に僕の相手役をやってほしい」
と、力強く訴えた。
突然のことに認識が追い付かず、まばたきを繰り返すしかない椿月。
ざわめく周囲にお構いなく、天崎は彼女にぐいと迫った。
「本当の君とでないと、私は演らない」
彼の本気の言葉に圧倒されている椿月の背後には、誠一郎が追い付いていた。状況を見守りながらも、どうしたら良いか分からず、動けない。
どうやら役者の知り合いだろうということは、会話内容以前にその優れた見た目で分かった。役者同士の話なのであれば、自分が邪魔してはいけないだろうとは思うのだが。
「今から館長に話しに行こう。君がその姿を隠して悪女の役だけをしているのは、どう考えてもおかしい」
天崎はそのまま椿月の手を引いて行こうとする。たしかにここから劇場は遠くない。ましてや、他劇場からわざわざ来てくれている看板俳優に、強いことが言えるはずもなく。
どうしよう、と振り返った椿月の瞳に写る、とまどう誠一郎。
その躊躇を察した天崎が、椿月が後ろ髪を引かれている男の姿に気がつくと、
「ん? 君の付き人か?」
と、何の疑いもなくそう尋ねた。
パッと見てそう判断されるのは、誠一郎自身も致し方ないと思う。二人で会うことが今日の互いの外出の目的だったなんて思われないほど、容姿の程度に差があることは自分でも分かっている。
「えっ。あ、いえ、彼は、その……」
椿月はどう説明しようか迷っていた。誠一郎は常々、駆け出しの小説家であることは周りには黙っていてほしいと言っているし、ただの“ファン”と言い切ってしまうのも何か違う気がする。もちろん、契り合った恋人などではないし。
口ごもる椿月の困惑も意に介さず、天崎は誠一郎に言い放つ。
「用が済んだら私が彼女の家まで送ろう。君はもう帰りたまえ」
それは付き人や使用人に対してなら当然のように掛けられる言葉で。きっと天崎には悪意などわずかもないのだろう。
それを言い残すと、天崎は椿月を本当に連れて行ってしまった。
手を引かれながら何度も後ろを振り返る椿月を、辻待ちしていた自動車に乗せ、二人は劇場方面に見えなくなっていく。
一人取り残された誠一郎。
逢瀬の相手を引き留めることもできず、他の男に連れて行かれてしまった間抜けな男は、一体どんな表情を浮かべたらいいのだろう。
でも、何を考えてもどうすることもできなくて。もやもやした気持ちを抱えたままここを立ち去るしかなかった。彼女の劇場関連のことなら仕方ないと、自分に言い訳するように言い聞かせて。
先ほどまで浮かれていた自分が、昨日無理して多めに仕事を終えておいた自分が、馬鹿みたいに思えて情けなかった。
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