雨ざんざん

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「聡一郎。(行きます)と(行くんです)は、どう違う? どう使い分ければいい?」  またか、と聡一郎はうんざりした表情を隠そうともせず、手短に答える。 「気分で使い分ける。行くんですの方が、行きたい気持ちが強調されていると思う」  ドイツ人気質なのか、本人の性格によるのか、あるいはその両方なのか定かではないが、ハンスは事あるごとに日本語の疑問をぶつけてくる。  だが、文法に精通しているわけではない聡一郎は、実のところ、ハンスの理詰めの質問攻めには辟易していた。   ハンス・ノイベルトは、旧東ドイツのドレスデン出身で、日本建築や庭園に魅せられたのがきっかけで、日本に語学留学している。  しかも建築家である、聡一郎の父のファンだそうで、何度も父を訪ねるうちに、家人―聡一郎の母や妹―とも親しくなった。  あげく、日本画を専攻している美大生の息子―これは聡一郎のことだが―いることを家人から聞きつけると、聡一郎が一人暮らしをしているマンションにも遊びに来るようになった。  聡一郎は、来る者は拒まず、去る者は追わずのスタンスで人付き合いをしているので、生活や制作の邪魔にならない限り、ハンスが居ついても気にはしない。  ハンスも気まぐれに来ては、聡一郎の部屋で好き勝手に過ごして帰っていくのが常だったが、今日は語学学校のテキストを持ちこんで、わからないところがある度に、聡一郎に質問を浴びせていた。  一方の聡一郎は、ハンスの持ってきたカスパー・ダーヴィド・フリードリヒの画集をめくりつつ、傍らにいるハンスの質問に答えを返していた。  ハンスはよく喋った。だから日本語が達者なのかもしれない。時折、辛辣な皮肉を言うが、なかなか本心はみせない。密かに聡一郎のことを注意深く観察している。  それがなぜなのか、聡一郎は気づいている。ハンスと自分が「同類」であることに。お互い、既にわかっているのだ。それは人種も国籍も言葉も関係なかった。  だが、自分から言い出だしたりはしない。いつ、どちらが先にアクションを起こすのか、緊張感を楽しんでいるのはハンスも一緒だろう。  そんな二人の間の均衡が崩れたのは、ある夏の日のことだった。
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