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「雷が遠のきましたね」
吉岡は、春海の声で現実に引き戻された。
「まだ雨足は弱まりませんが」
「雨ざんざん、だ」
「え?」
「いや、なんでもない」
そうだ、あの日もこんな風に雨が激しく降り続いていた。
初めてハンスと一線を越えた後、彼が土産に持ってきた秘蔵のトロッケンベーゼン・アウスレーゼの栓を抜き、杯を傾け、その甘さに酔いしれながら、ハンスはこんなことを言っていた。
「日本の雨の表現はおもしろいね。シトシトとかポツポツとか。オノマトペっていうんだろ? 感覚的にわからないけど、この雨はザーザーとか?」
「ザーザーよりも、そうだな、ザンザンが合うかもしれない」
「雨、ざんざん」
ハンスはおもしろそうに、何度もその言葉を繰り返していた。
だが、そんな雷雨の夜の後も、ハンスとの関係は変わらなかった。
かといって単なるセフレというわけでもない。足立美術館や桂離宮を見に、二人で旅行したこともある。
それでも、恋愛感情からくる干渉や束縛とは無縁だった。
やがて留学を終え、帰国したハンスは、盆栽の修行をするために再び来日し、そしてまたドイツに戻った。
ハンスと三度会う日が来るかどうかはわからないが、春海という最愛の人を得た今、彼との間にあるのは、若き日の思い出だけだった。
「吉岡さん?」
いつの間にか、春海が心配そうに見つめていた。吉岡は何でもないという風に軽く頭を振った。
庭に降り注ぐ雨は次第に小降りになり、遠雷に被るように蝉の声が聞こえ始めていた。
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