華やぎ

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「なんて芸術的。食べるのがもったいないくらい」  琴子は、懐紙の上に載せた和菓子をしげしげと見つめた。  今の時期に合わせて、杜若を模った生菓子である。米粉と餅粉でできた外郎生地は、裏が白、表が薄紫の二層仕立てで、中に黄身餡が包まれている。  この菓子を持ってきたのは、三弦の弟子である未明だ。  未明は、この春から家業の料亭で若女将の修行を始めた。  相談があるのですが、今日の午前中にお伺いしてもいいですか、との連絡があり、未明はこの和菓子を手土産に琴子の元を訪れた。なんでも、料亭で抹茶を所望された時に出す、この時期ならではの主菓子で、御用達の和菓子屋で特別に作ってもらっているという。  未明の相談事というのは、多分、女将修行で多忙につき、稽古を当分休みたいという申し出だろうと琴子は予想していた。  ところが、これからは箏の稽古もお願いします、という意外なものだった。  というのも、お点前の呈茶だけでなく、ゆくゆくは箏の演奏もサービスの一環としてできるようになりたいのだという。  確かに、未明が稽古している三弦よりは、箏の方が披露向きの曲が多いし、箏と三弦のどちらも弾けるのに越したことはない。  実際、邦楽業界では、どちらかだけよりも両方弾けることはステータスの一つでもある。  現に、琴子や春海の所属する流派では、師範の資格を取得するのには、箏と三弦のどちらも弾けることが必須だった。 「もしかして、箏は春海に習いたい?」  未明が春海に憧れていることは知っていたので、そう聞いたところ、 「いえ、私のお師匠さんは、琴子先生ですから」 と、未明が深々と頭を下げたので、内心、嬉しかった。  箏を習う男子も増えてはいるが、箏を稽古するのは、昔も今も圧倒的に女性が多い。  ただ、女性は男性よりも環境の変化を受けやすい。子どもや学生の頃から長く習ってはいても、進学や就職、結婚、出産、育児…あるいは夫の転勤や親の介護などで、中断したり辞めてしてしまう者も多々いる。  箏の教室を開いてまだ十年だが、そうした門弟達の事情を見るにつけ、未明のように、続けようと頑張っている弟子がいるのは喜ばしいことだった。  そんな琴子といえば、結婚後は嫁ぎ先宅で生活しており、日高家には、箏と三弦の教室の仕事場として毎日のように通っている。  今日は、日高和楽器店は定休日だが、琴子は自身の稽古に来ていた。   時計を見る。そろそろ春海が戻る頃だろう。  春海は今でも火曜日の夜、吉岡宅に出張稽古に出かけると、そのまま泊って、水曜日の午後に戻ってくる。  吉岡といい仲になってからというもの、春海の箏は、明らかに音色が変わった。正確無比な技術やクリアな響きはそのままだが、無色透明の澄んだガラスに、ほんのりと色が付いたようなイメージだ。春海の奏でる箏の音色は、磨かれて艶めき、光沢を放つクリスタルを思わせた。  音楽の神様がいて、天賦の才が与えられるものならば、春海は神様に愛され、音楽を奏でる才能を授かった、幸運の持ち主だ。  気づいたのは、春海が六歳で箏を始めてから半年ほど経った頃だろうか。  神仙調舞曲。  琴子が練習を重ね、やっと弾けるようになった曲だった。それを春海は聞き覚えたのだろう。部分ではあったが、軽々と弾きこなしていた。  それを目の当たりにした時、琴子は足元が崩れ落ちるような眩暈を覚えた。六年、自分の方が長く箏を弾いているが、すぐに追いつかれる。どころか、あっという間に抜かされる日が来るだろう。  それは確かな予感であり、ほどなくして現実となった。  練習しても思うようには弾けず、もう箏を辞めよう、と思ったこともある。  それでも踏みとどまった。春海に敵わなくても打ちのめされても、やはり箏が好きだった。弾けない曲は千回練習する、という稽古を自分に課した。  辛いときも苦しいときも、箏を弾くことで乗り越えられた。理想には遠くても、弾いた分だけ、箏は応えてくれる。  それに、奏者としては凡庸だとしても、琴子は教えるのに向いていた。自分がそうであったように、どうして相手が弾けないのかがわかる。弾けない者の気持ちを汲み取ることができる。それは琴子の強みにもなった。    菓子を食べ終えると、琴子は、軽く伸びをした。  つい物思いにふけってしまったが、箏を置いている畳に移動して、最近、出版されたばかりの真新しい楽譜を手に取る。  吉岡の妹、志保子が作曲した「春宵 箏に寄せて」という楽譜だ。 この曲は、今年のお弾初会で、春に楽譜が出ることの宣伝を兼ねて、志保子がソロで演奏をした。  そして、作詞が与謝野晶子の短歌だと知ると、門弟の女子中学生達が目の色を変えて、瀕死~、文スト!とか訳のわからないことを口々に言いながら弾きたがったのだ。  とにかく、教えるにも、まず自分が弾けるようにしておかなければならないので、稽古をしている。  箏(琴)をモチーフにした五歌の組歌で、小品ながらも、なかなか高度な曲だ。若い女性の情熱、瑞々しい情感に溢れた旋律が、なんとも志保子らしい。 「演奏だけじゃなく、志保子さん、作曲の才能も持ち合わせているなんて、音楽の神様は依怙贔屓しすぎ…」 琴子は、思わず呟いた。  自分は、春海の研ぎ澄まされた煌きを持ち合わせてはいない。  志保子が身にまとう華やぎに満ちたオーラも持ってはいない。  だが、得られないものを嘆いても仕方がない。私は私の音楽世界を築いていけばいいのだ。音楽にゴールという終わりはない。  そう、一生かけて弾き続けていくものなのだから。    息を整え、最初の一音を弾く。  短い前弾の後、琴子の歌声が妙なる調べにのり、窓外へと静かに流れていった。
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