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旅人の余計な爆弾発言のせいで、未明は悶々としていた。春海先輩が吉岡となんて、あんまりにもあんまりだった。果たして事実なのか? 事実ならば許せない。とても耐えられない。
らしくない堂々巡りの思考の末、「気持ちが荒ぶっている時に春海先輩に会うのはよくないのでは?」という気持ちより、「それでも確かめたい!」という気持ちが勝った。
未明は決心すると、翌日の仕事の中休みに、日高家を訪れることにした。こういう時、身内の仕事は融通がきくので、ありがたい。
今日は水曜日。琴永堂は定休日だが、用がない限り、春海先輩は日がな箏の練習をして過ごすことを知っている。
住居兼稽古場のある玄関で、呼び鈴を押すと琴子が出てきた。琴子は春海の姉で、未明の三弦の師匠でもある。
「あらあら、中野さん。今日はどうしたの?」
「お稽古日じゃないのに、突然すみません」
未明は頭を下げた。
「今度、お店で出す予定の、新作のドルチェを持ってきました。琴子先生と春海先輩に試食と感想をお願いできたらと思いまして」
不自然な訪問にならないよう、考えてきた口実と共に、未明は琴子に菓子の入った箱を差し出した。
「わぁ、嬉しい。時間ある? じゃあ一緒にお茶しましょうよ」
甘いものに目がない琴子は、嬉々として未明を招き入れた。ダイニングキッチンに通され、座って待っててという琴子に、私もやりますと未明も手際よく手伝いをする。
「なんていうお菓子?」
「スフォリアテッレ」
「スフォリャ、リャテレ? なにかの呪文みたい」
おかしそうに名前を反復する琴子に、未明は切り出した。
「あの、春海先輩は?」
「出かけてるけど、いつも午後には帰ってくるから。そろそろ戻ってくる頃じゃないかしら」
琴子の言った通り、二人で茶飲み話をしていると、春海が帰ってきた。
「中野さん、久しぶり」
春海の姿を目の当たりにして、未明の胸は高鳴る。いつも姿勢よく、凛とした佇まいの春海を見るのは―さらに言えば、箏を弾いている時の春海を見るのは―未明にとって、至福の一時だった。
だが、今日の春海は疲れているようだった。どこか気だるそうな空気を身にまとっている。
「春海先輩、仕事忙しいんですか?」
「いや、そうでもないけど」
「なんだかお疲れの様子だから」
「…昨日、寝不足だったからかな」
春海の目元が僅かに赤らんだのは気のせいだろうか。
「甘いもの食べて、元気だしてください」
さて、どうやって春海と二人だけで話ができるように持っていこうかと未明が思案しつつ三人で歓談していると、はからずも琴子が時計を見て席を立った。
「あらもうこんな時間。そろそろ行かなきゃ」
これから子どもの学校でPTAの役員会があるの。今日はごちそうさま。近々、中野さんがいるうちに、カフェに行くからね。
そんな言葉と共にタイミングよく琴子が退出したので、未明は改まって春海の正面に座りなおした。
だが、
「中野さん、何かあった?」
春海に先を越されてしまった。
「中野さんも今日は元気がないみたいだから。本当は姉に相談があったのに、僕が帰ってきたから、言えなかったのかな」
「違います。本当は、春海先輩と話がしたくて来ました。それに、聞きたいことがあるんです」
未明は春海の目をまっすぐに見つめた。
「私、春海先輩のこと、ずっと好きでした。でも、春海先輩にとって、私は後輩でしかないってことは、自分でもわかっています」
よくて妹みたいな存在なのだろうが、未明の知る限り、一番お近づきになれた女子ではないかと自負している。
それでも、自分が選ばれることはないだろう。きっと春海の相手となるような人は、自分よりも才長けて見目麗しく情けの深い女性にちがいない。
ずっとそう思っていた。春海に似つかわしい素敵な女性だったら、諦めもつく。
それなのに…なぜ、よりにもよって吉岡なのだ? せめて吉岡の妹の志保子ならば納得もできる。だが、性別や年齢を差し置いても、吉岡よりは自分の方が数段ましであろう。
「だから、失礼を承知で教えてください。どうして吉岡さんなんですか?」
いきなり吉岡の名前を出されても、春海は顔色を変えなかった。少しばかりの沈黙の後、春海は穏やかに答えた。
「どうして吉岡さんなのか、自分でもわからない」
「そんな…そんなわけのわからない人、春海先輩にはふさわしくありません! あの人、有名な画家だか、お金持ちだかしらないけど、いい年をしたオジサンですよ? 春海先輩、何か弱みを握られて脅されていませんか? それとも騙されてるんじゃないですか?」
春海の要領を得ない答えに、未明は業を煮やし、一気にまくしたてた。口にするうちに、一瞬でも吉岡を同士だと思った自分を許せない気持ちになる。
そう、二月ばかり前に、未明は吉岡と談笑したのだ。
毎年恒例の、新年を寿ぐ、お弾初会の席だった。琴子の門下生や仲間が一同に集まり、グループごとに曲を演奏する、いわば内輪の発表会だ。
そのうちの一曲が「飛騨によせる三つのバラード」という、箏三面と十七絃、それに尺八の合奏曲だった。
箏を演奏したのは、特別出演の志保子、琴子、それに吉岡の三人で、春海は十七絃を弾き、沢渡が尺八を吹いた。可能なら、未明も一緒に演奏したかったのだが、残念ながら、この曲に三弦のパートはなかった。
吉岡は、箏を始めて半年だという。本来、「飛騨バラ」は、初心者の弾くような曲ではないのだが、よほど猛練習をしたのか、吉岡は三箏を堂々と弾きこなしていた。
お昼の会食時、未明は迷わず吉岡の隣席に座った。春海の初めての箏の弟子だというからには、いろいろと聞き出すつもりだった。
どうして箏を始めたのか、という未明の質問に、春海が箏を弾いているのを聴いて、と吉岡が答えたので、実は自分もだと、未明も負けじと自慢した。大学の邦楽愛好会に入ったのは、春海の弾く箏の演奏に一目(一聴)惚れしたからだと。
そんな未明の春海話を楽しげに聞いていた吉岡とは、気づけば意気投合し、連帯感が芽生えていた。まさか吉岡が春海と不埒な間柄だとは夢にも思わなかったので、春海先輩を交えて、今度三人で合奏しようとまで盛り上がったのだ。今にして思えば、吉岡は、何も知らない未明のことをおめでたい後輩だとでも内心では面白がっていたのに違いない。
「ただね、吉岡さんといると、安心するっていうか、ホッとできるんだ」
さっきの、どうして吉岡なのか、の問いへの補足説明なのだろう。未明が落ち着くのを待って、春海はそんな風に言葉を添えた。
「中野さんは、吉岡さんとのこと、品川君から聞いたのかな?」
「はい」
「あの時、一緒にいたのが沢渡だけだったら、言わなかった気がする。でも品川君に聞かれて、なんでかな、無性に言いたくなった。本当は聞いてほしかったんだと思う」
未明はここで、はたと気づく。春海にとって、恋愛対象が同性だと打ち明けることは、一か八かの大事件だったはずだ。
「それで、あの二人は何て…?」
「沢渡が心配して、根掘り葉掘り聞いてきた。でも、最後は、僕が幸せなら、それでいいって言っていた。品川君は、先輩、俺も両思いになれるよう頑張りますからって言ってたな」
「そうですか」
あの二人が嫌悪や好奇の言動で春海を傷つけていないことに、未明は安堵した。確かに、春海と吉岡のことは多大なる衝撃を受けたが、春海のセクシュアリティを知ったからといって春海への気持ちは変わらない。そのことは伝えておきたい。
「応援します」
未明は宣言した。
「私も春海先輩の幸せを応援します。ついでに、五年間の片想いに免じて、これからは中野さんではなく、未明ちゃん、って呼んでください」
夜明け前に生まれたので、未明と命名された。まだ夜の明けない静寂の中、新しい一日の始まりと希望を予感させる名前。女の子っぽくはないが、気に入っている。
別にいいけど、と春海は苦笑した。そんな春海を見て、ああ、春海先輩、変わったな、と未明は思う。以前だったら、中野さんに限らず、誰かを特別扱いするのはよくないから、などと杓子定規な理由で断わられただろう。
「恋は人を変えるって本当ですね」
「え?」
「春海先輩、前とは感じが変わりました」
「…そうかな」
春海は照れくさそうに横を向いた。
(やだ先輩可愛すぎっ!)
未明は、初めて見る春海の表情に、思わず心の中で叫んだ。
かつての春海は、穏やかな物腰の裏では隙をみせず、透明なバリアを張っていた。そんな孤高な姿に惹かれてもいたのだが、一体、吉岡はどんな風にバリケードを解除したものやら…嫉妬を禁じえない。
春海の横顔を見つめながら、未明は胸の痛みを笑顔の下に隠した。
「よっ、お疲れ」
その夜、仕事を終えて外に出た未明は、旅人の出迎えを受けた。店内にはいなかったので、今しがた来たところか、外で待っていたのだろう。
今夜は、何も言わずに歩く未明の後ろを旅人も黙って後からついてきた。
やがて、公園にさしかかった。桜の木の下で、未明は歩みをとめた。
「春海先輩、幸せそうだった」
「そっか」
ポタリ、と一筋の涙が頬を伝って、地面に吸い込まれた。
「やだな、とうとう花粉症かも。鼻水たれる…」
慌ててバッグの中を探る未明より早く、旅人は右手でティッシュ、左手でハンカチを差し出してきた。
「…用意よすぎだよ」
未明は、受け取るよりも早く、旅人に抱きついて、しゃくりをあげた。よしよし、と旅人があやすように抱いてくれている。泣いている姿を見られるのは悔しいが、旅人の腕の中は不思議と心地よかった。
泣き止んだ未明に、旅人は笑いかけてきた。
「桜、見にいこうぜ、なっ?」
「もうっ、どさくさに紛れて」
公園の桜の蕾は日に日に膨らんでいく。
やがて春が…暦の上だけではなく、二人の上にも訪れようとしていた。
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