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「だーかーら、ダメなものはダメ」
中野未明はピシャリと言って、品川旅人の食べ終えた皿をさっさと下げるが、相手もさるもの。これくらいのことでは引き下がらない。
「そんなこと言わないでさ」
「しつこい男お断り」
「…これで135回目か」
「何、それ?」
「中野が俺のお誘いを断わった回数」
「よくそんなの数えてるね」
半ば呆れ、半ば感心したように未明は言った。
事の起こりは一年前に遡る。大学の卒業を機に、未明は、三曲研究会という、邦楽愛好会仲間で、同級生でもある旅人から交際を申し込まれた。
「友達としてなら」
未明は即答した。旅人は気が合うというか、一緒にいて気楽な相手ではあるが、四年間一緒に活動してきたので、今更何のトキメキも感じない。どうしたって恋愛の対象にはならないのだ。
未明には迷いがない。即断即決。YES・NOもはっきりしている。
そんな性格ではあるが、いろんな人間が出入りする環境で育ったせいか、人付き合いは上手い方だろう。
必要があれば、世辞を言うことも頭を下げることも厭わない。
だが、真心のこもらない言葉や行為に、何の価値があるだろうか? 本物は、声高に言い触らしたりしなくても、わかってくれる人にはちゃんと伝わるものだ。未明は、親の仕事ぶりを見ていて、切にそう思う。
未明の家は「花筏」という、老舗の、懐石をベースにした日本料理店を経営している。
儲けよりも味と質を第一に守ってきた。長女である未明も、この伝統と暖簾を守るべく、大学卒業後は、花筏で若女将修行をする心積もりでいた。
だが、その頃、叔父夫婦が始めようとしていた飲食店の手伝いを頼まれ、未明の父親からの後押しもあり、一年間だけなら、ということで引き受けたのだ。
叔父の店の名前は「道化師」という、イタリアン・カフェである。小さな店なので、未明は給仕から売り上げの計算まで、一通り何でもこなしていた。この一年はまずまず順調な滑り出しである。未明の後任も決まった。未明にとって、この一年はあっという間だった。
閉店後、未明は、カウンターの奥にいる叔父の背中に声をかけた。
「お先に失礼します」
はいよ、気をつけてなー、という返事を受け、未明が外に出ると、ドアの前に旅人が待っていた。
「よっ、お疲れ」
「まだいたんだ。つくづくヒマなんだね」
「中野の叔父さんから、女性の夜の一人歩きは危ないから、無事に家まで送り届けてほしいって頼まれてるしさ」
もっとも、送り狼の禁止は言い渡されたけど、という旅人に、首を竦めた未明は、連れ立って駅へと歩き出した。
未明と同じ社会人一年目の旅人は、会社員なので、普段は残業などでそこそこ忙しいはずだが、週に一度は今夜のように店に来て、送迎という名目で未明の仕事が終わるのを待っている。
叔父の店から未明の家までは二駅ある。最寄駅までの道中、公園を通り抜けると近道なので、二人は園内を突っ切って歩いていたが、ふいに未明が足を止めた。
「桜の蕾、膨らんできたね」
「暖冬だったからな。そうだ、今度の休みは花見に行こうぜ」
「この公園の夜桜で十分じゃない」
「春風の吹く青空の下、中野と手を繋いで桜並木道を歩きたいんだよ、俺は」
「実は私、桜よりも梅の花の方が好きなんだよね」
「…136回目。なぁ、中野、俺とデートすんの、そんなにヤなの?」
「恋愛とか、今は考えられない。浮ついた気持ちで、これから女将修行したくないから」
「相手が俺じゃなくて、日高先輩でも?」
思いがけない問いかけに、未明はまじまじと旅人の顔を見た。
「なんでここで春海先輩?」
「中野、大学時代、ずっと日高先輩LOVEだったろ」
日高春海先輩こと日高春海は、未明達より二学年上の、邦楽愛好会のメンバーだった。卒業後は家業の和楽器店を継いでいる。
そんな春海と愛好会で一緒だった二年間、未明が春海のことをひたすら慕い、懐いていたのは周知の事実だ。
しかも、旅人は卒業と同時に尺八を辞めたが、未明は今でも春海の姉に三弦(三味線)を習っている。旅人が、未明がいまだに春海に片思いしているのだと思っていても不思議ではなかった。
「確かに、春海先輩は私の憧れだよ。昔も今もこれからも」
「悪いことは言わないから、いいかげん、日高先輩はやめときな」
「大きなお世話。春海先輩と私じゃ釣り合わないことぐらい、自分だってわかってるし」
「そうじゃない、あの人はさ…」
「春海先輩が何?」
口ごもった旅人に未明は詰め寄った。春海のこととなると、未明も冷静ではいられない。
とりあえず座って話そうと、なぜか旅人がベンチではなくブランコに腰をかけたので、未明も隣のブランコに腰を下ろした。
「日高先輩、付き合っている人がいるんだってよ」
それはある程度、未明も予期していたことだった。
「なんでそんなこと知ってるのよ?」
「本人から聞いた。沢渡先輩の結婚が決まった時に、前祝いだって邦楽愛好会のOBで飲み会やったんだよ」
尺八吹きの沢渡は、春海と同級だが、半年前、デキ婚もとい授かり婚したと風の噂に聞いている。
「で、終電なくなったんで、沢渡先輩と俺は日高先輩の家に泊めてもらうことになった。その時に…」
春海の家で、さらに酒盛りして、その場で雑魚寝(春海を除く)の流れ、という、学生時代から続く、お決まりのパターンだった。
いい塩梅に酔いが回っている旅人は、沢渡をさかんに羨ましがったついでに、春海にも尋ねた。「日高先輩はどうなんですかー?」と。
鉄壁の潔癖、と呼ばれていた春海のことだ。コイバナなんて、はなから期待はしていなかった。
それなのに、「付き合っている人はいるよ」という、意外すぎる答えが返ってきたのだ。これには沢渡も驚いたらしい。どんな「彼女」なのかを聞き出そうとしたところ、「相手は男だから」という予想もしなかった言葉が春海から発せられ、旅人は一気に酔いが覚めたのだった…。
「嘘だよね」
黙って聞いていた未明は、旅人の話が終わると、抑揚なく呟いた。
「日高先輩が嘘と冗談を言わない人なのは中野も知ってるだろ」
「大体、その相手って誰?」
「俺は知らない。沢渡先輩は知ってた。けっこう年上の、画家? 絵描きって言ってたな。名前は、聞いたかもしれないけど、忘れた」
年上の画家…絵描き。
脳天を稲妻に打たれたかと思った。一瞬にして、未明は悟った。
あいつだ。吉岡。あの男に違いない!
未明はブランコから立ち上がると、勢いよく歩き出した。
「おい、どうしたんだよ、中野!」
旅人が追いかけてきた。背後から腕を捕まれたので、振り向きざま、
「馬鹿っ!」
と怒鳴って、思い切り手を振りほどいた。
未明の剣幕におされたのか、旅人はそれきり後を追ってはこなかった。
ただショックのあまり、その夜、未明は電車には乗らず、ひたすら歩いて自宅に戻った。
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