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「何だったんだ、あれは?」
人影を呆然と見送り、糸原は、独りごちた。今起きたことが、現実なのか、幻覚でも見ていたのか、判別ができなかった。
糸原は真偽を確かめる為、人影が立っていた場所に移動した。
まず、人影がそうしていたように、マンションを仰ぎ見る。
糸原の部屋は駐車場に面しているので、もしや自分たちの部屋を見ていたのか、とも考えた。しかし、夜の闇ではマンションの外観をかろうじて確認することはできても、十二階の部屋を探し当てるのは難しい。それに、何よりあれの目的が、自分だったという確証もない。
──考えすぎか……。
部長の件で、少し神経が過敏になっているのかもしれない。糸原は、軽く息を吐き、足元へと視線を落とした。
よく見ると、自分の周りのアスファルトだけ、色が濃い黒になっている。
──……雨?
いや、雨は降っていなかった。なのに、地面が濡れている。それは、さっきの人影の足取りと重なって点々と続く。
──それにこの匂い……。
夏の湿った暖かい夜風に乗って、鉄の交じった生臭い匂いを感じた。
──血液の匂いだ。
仕事がら、それは容易に判別できた。
──あの人影か?
あれは、怪我をしていたのか?
血液の量を考えるに、かなりの深傷だと判断できる。
しかし、立ち去る時の動きは俊敏で、到底怪我をしているようには思えなかった。
──わからないことだらけだ。
まんじりとその場に立ち尽くす。やがて、深い溜息とともに、糸原は首を横に振った。
あれの目的は分からないが、こちらに危害を加えるつもりなら、さっき出来たのは確かだ。しかし、あれはこの場を立ち去った。──つまり、こちらに危害を加えるつもりはないということだ。
で、あればだ。
今、優先すべきは部長のことだ。
糸原はそう結論づけ、病院へと向かうことにした。
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