今宵の月は

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 車のドアを開け、助手席にリュックとマグボトルを放り投げる。それから、運転席に滑り込み、ドアを閉めた。スターターボタンを押すと、夜のしじまを破り、エンジン音が辺りへと響き渡る。  糸原は、ヘッドライトを点け、ゆっくりと車道へハンドルを切った。へッドライトに照らされて大正浪漫づくりの喫茶店が浮かび上がる。  ここ、西城市は、江戸時代には城下町として栄えていたため、古い建造物が数多く残されていた。  現在は、国立大学を有する学園都市となったが、城下町特有の複雑で細い道路はあちらこちらに張り巡らされていて、袋小路や一方通行の道も多い。地元の人間でも迷うほどだという。  大学進学で引っ越してきた糸原も、車の運転に慣れるまでは、かなりの時間がかかった。  病院までの道のりは、交通標識を無視すれば五分ほどで着く距離である。しかし、その距離でも廻り道をしなければならない。どんなに急いでも十分はかかってしまう。いつもなら気にならない時間も、今日は苛立ちを覚える長さだ。  ふと、信号待ちをしている脳裏に、先日の部長との遣り取りが蘇った。
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