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ねえ、糸原くん、と眼鏡の下に穏やかな笑みを浮かべ、部長が言う。
はい、なんですか、と弁当を突つく手を止め、糸原は応じる。
「由佳ちゃんは、元気にしてる?」
猫背気味の背中をさらに丸め、両手でコーヒーカップを包み込みながら、部長が尋ねた。
「由佳ちゃんって……。他人の奥さんを馴れ馴れしく『ちゃん』づけするのは、どうなんですかね」
突然の妻の話題に、軽く顔をしかめる。しかし、部長は悪びれる様子もなく、続けた。
「だって、由佳ちゃんは、僕にとって妹みたいなものだから」
「それはそうでしょうけど」
そうなのだ。由佳と部長は、糸原より付き合いが長い。なにせ、由佳の小学生の頃の初恋相手が、部長なのだから。
糸原は、白髪の交じった、人の良さそうな部長の顔を複雑な表情で見つめた。
「……元気ですよ」
素っ気なく答えて、卵焼きを頬張った。
ふんふん、と頷いて彼は続ける。
「それって、愛妻弁当だよね」
「……まぁ、そうですね」
「いいよね、新婚さんは」
「何言ってるんですか。部長だって毎日手作りの弁当じゃないですか」
「いや、僕のはね、子供の弁当のついでだから」
「それでも作ってくれるんだから、立派な愛妻弁当ですよ」
そう言うと、部長は満面の笑みを浮かべ、「あ、やっぱり、そう思う?」と嬉々として尋ねてくる。単に惚気たいだけなのだ。
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