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10 試す心
「またこんなに飲んだのですね」
朝というには日が天頂に近づいていた時間。ロキナが食事を終えて自室に戻り、また母屋の食堂に戻ってきても、なかなか姿を見せない師を裏庭に立つアトリエへ探しに来た。
思ったとおり昨夜は酒をのみそのままに長椅子で寝てしまったようだ。
そこかしこに転がった瓶と充満する酒の匂いにロキナは形のよい細い眉をひそめた。
アトリエの周りには通いの庭師が丹精を込めてそだてた花々が咲いている。季節は美しい春だ。
今日は爽やかな風が吹く良い天気で、
一部ガラス張りになっている天井と庭を臨む大きな窓を開けて新鮮な空気を取り入れた。
明るい日差しの下、まだ目覚めない師のロファは無精ヒゲに、こころなしか落ちくぼんてきた目元で少しだけ老けて見えた。赤銅色の短く刈り上げられた髪や髭にも白髪が混じり始めている。
色変幻師の弟子である18歳のロキナとは18歳違いで、本来ならばまだまだ男盛りの年齢だ。
いつも自信に満ち溢れていた面影は消えかけているが、もともとは男らしく丹精な顔と、笑いじわが優しく刻まれる大きな若草色の瞳を持つと知っている。
しかしロファの心の底から笑った顔など、まったく見なくなってしまった。
1年前のあの日、何もかもが変わってしまったあの日から。
妻子とはあれから離れ離れで、仕事だけをしては酒を飲み、気を失うように眠りにつくばかり。
大恩ある師のそんな様子にロキナはいつも胸を痛めている。
「ロファ、起きてください」
揺り動かすと僅かに口元が歪み微笑んだように見えた。ドキン、と胸が弾む。
次の瞬間呼ばれたその名を聞き、今度は胸が凍り付いた。
「ミレイ?」
ロファはまだ夢と現の境にいるようだ。
でなければ妻の名をこのように甘く優しく呼ぶはずはない。
ロキナは師をこのまま幸せな眠りの縁に置いていこうかと迷い、ゆり動かそうと胸元においた手を反射的に握りしめた。
その重みに、ロファの大きな手のひらが反応して重ねられる。
愛おしく優しく柔らかい力で、握りしめられロキナはまた胸を締め付けられた。
最愛の師との交流はいつもロキナの心を波立たせるのだ。
ややあってロファはまぶたを開き、そこに弟子の甘やかな美貌を認めると失望したように眉間にシワを寄せ、離した手でまぶたを覆った。
「すまない、ロキナ」
「・・・なにがですか? 私のいいつけを守らずにまたこんなところで眠ってしまったからですか」
ロキナは努めて明るい声を出し、立ち上がって瓶を拾い集めに行った。こぼれた酒のシミをみつけ、今日はアトリエを掃除をしようかと思案する。
ロファは苦笑して起き上がると日差しの眩しさからツキンと傷んだこめかみをさすった。
「学園にはいかないのか?」
ロファのその問いに今度はロキナが苦笑する番だった。
「今日はお休みですよ。
卒業に向けた課題も一段落ついたのでこちらに昨晩戻ったんです。」
笑うと白い大輪の花に例えられる麗しい弟子の笑みに、ロファは僅かに目元を緩めた。
「研究の方はうまく行っているのか?」
「まだうまく思う通りの色が出せません。
この間もユノの髪色を染め直したのですが、これじゃ紅じゃなくて朱色だ、紅の騎士じゃなくてポロ海老の騎士になってしまうなどとからかわれたばかりです」
そういった後からその名を出したのはまずかったかな、とロキナは師の顔色を伺った。
起き上がったロファに、別段の変化はなく、ホッとして作業台の上に瓶をおいた。
青色の酒瓶に天井から光がさして、透過した深い青が美しい影を描く。
その色を複雑な顔でみつめたロキナは師に向き合った。
「そうか、どの色も思う通りの色を何度でも同じように定着させるのは難しいものだ。」
手を貸してご覧。
師がロキナに向かい手を差し出す。
何をするのかわかっているロキナは、ロファの芸術家でありながら職人でもある硬い手のひらに柔らかく白い手を載せた。
つないだ温かい手のひらから、師の魔力がびりっと流れるのを感じる。
「流して」
その魔力を今度は自身の指先からだしていくことに集中し、青い瓶に指先を触れさせた。
触れた部分から鮮やかな紅玉のような赤に瓶が染まる。師が手を離すとそのまま集中するがやや赤の明度が上がり、黄身がかった。
ロキナが眉を下げ、途方に暮れた子供のような表情を見せたが、ロファはそれには構わずこういった。
「お前に今後、紅の鎧を任せていこうと思っている。それにより、他の仕事からも手を引くかもしれん。」
「えっ」
ロキナは言葉を失った。
「待ってください。まだ私にはあなたの手助けが必要なのです。赤だって
……見てのとおりでしょう、まだまだ色の制御が難しい。それに先生と同じ色を出すには私も青が扱えないと難しい。無理です」
本当は言いたいことはそんなことではなかった。
あの日失いかけた命が永らえ、どんなに嬉しかったか。ロファには辛くとも、こうして戻るたびに顔を見ることがどれだけ励みになっているのかを。
まだまだ教えてもらいたいことが沢山あると、それを口実に。
ずっと、そばにいてほしい。
ずっと、そばにおいてほしい。
ただそれだけ、ただそれだけが望みなのに。
「青を少しずつだせるようにしていこう。元々はお前も持っている力だ。きっと出せる」
その言葉にロキナは我が耳を疑った。
「あのときは青を絶対に人に見せるなと、
そういったのはロファではないですか」
それには痛いところをつかれたように。ロファは答えない。
「僕を…… なんだと思っているんですか。」
ロキナは声を震わせて、悲しい顔をしてロファを見つめ返す。
もうボクのことなんてどうでもいいと思っているの? そう心の中で問いかけているかのようだ。
「お前はもう十分、この国で一人で生きていける。俺なんかよりずっと上手くやれる。」
そう言うとロファはロキナが染めた瓶の赤を上書きするように紅玉の赤に変じさせた。
「あの時から俺のほうがよほど制御を失っている。……もう、辛いんだ。」
国宝を傷つけたことは不問に処された。しかしそれはマティアスからの、ミレイとの仲は真実であるということの無言の肯定でもあった。
そしてその上で、今までどおり恋敵が全権を受け持つ紅の騎士団絡みの仕事を引き受けざるを得なかった。
この一年、ロファは仕事を投げ出すこともなく、自分のこれまでの制作物もきっちり作ってきた。
その誠実な仕事ぶりや根強いファンからは同情と今まで通りの支援を得られた。
一方ではマティアスとミレイの純愛を肯定するような風潮も世間には表れ、それにはロファやロキナ、もちろんマティアスの家族であるユノは深く傷つき失望した。
城下町にある貴族御用達の宝石商が、店先に若かりし、ミレイが描いたというトパーズのアクセサリーをつけた自画像を飾り、二人の秘められた純愛のロマンスをトパーズの宣伝文句として売り出したり。流行作家が二人をモチーフとした恋愛小説を書いたりしたため、最近はまた再びロズクの王都は噂が再燃していた。
しかし勿論不倫の罪を犯したミレイやマティアスへの風当たりは変わらず強く、ミレイの体調は思わしくなくショックから色変幻魔法を使えなくなったとのことであった。
「家族一つ満足に守れないような男に、この仕事は荷が重過ぎる」
そういって自嘲の笑みを浮かべたロファは、ロキナの知っている師ではなかった。
自分を見失った、一人の男であった。
ロキナは下を向き、柔らかな唇を色をなくすほど噛み締める。
二人の間に、昼間の暖かな日差しをも凍らせるような長い沈黙が流れた。
雲が流れて天井からの日差しが陰る。
「わかりました。ただし、それには条件があります」
そういってロファを見上げた弟子は、初めて出会った日に見たような蠱惑的で寂しげな笑みを浮かべて口を開く。
続いた台詞に、ロファは弟子を深く傷つけていたのだと、理解した。
赤と青を使いたいんです。
失われ、使えなくなっている青を。
私に先生が色を差してくださるならば。
喜んでお引き受けいたしましょう、と。
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