2 掌のぬくみ

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2 掌のぬくみ

歩く、歩く。 人生でこんなに歩いたことはない。 筋肉のついていない柔らかな足はとうに豆だらけになった。 前を行く赤銅色の髪の背の高い男は、時折後ろを振り返りながら歩を緩めるが、それでも追いつかないほど体力がなかった。 「もうすぐつく。そうしたら休めるから頑張るんだぞ」 男は励まして、少年の手を取って引いてくれた。 職人らしい硬い手のひらに、安心できるぬくもりを感じ、少年は、霧で煙る坂の上に目を凝らした。 ※※※ 少年が物心ついたときには両親はおらず、 ほんの小さな頃に、宿に捨てていかれたと伝えられていた。 割と大きな宿場街で、給仕と遊び女を兼ねているものたちが産み落とした子どもも大勢がいたので、少年もその中で雑多に育てられた。 それでも互いに、誰の親は誰というものはわかるもので、目鼻立ちが整い、生糸のような髪の色の少年は、誰にも似ておらず、子どもたちからも仲間外れにされることが多かった。 小さいうちから水くみや他の子どもの世話など目まぐるしく働き、気がつくと眠りに落ちて、そしてまた朝早くから働く。 しかし従順に仕事をこなせば住む場所食べるものには困らなかった。 そんな日々の暮らしの中、使いを頼まれて2軒隣の商店にいかされたとき、それなりに学のある商人の男が、少年の美しさに目をつけて買いたいと言い出した。 初めてのときは地獄のようで、少年は助けを請うて泣き、男は余計に興奮して少年を無理矢理に抱いた。最後まではいたせなかったものの体中がとても痛んで翌日はとても起き上がれなかった。 男は逗留の日程を増やし、とろけるような甘い声をだし少年に謝ったが、謝るぐらいならば心を自制すればよいのにと少年は心底腹がたった。 それからは月に一度、仕事で宿場を訪れる男に少年は身を任せることを強要されるようになった。 子どもたちからは男が逗留中は、少年だけ辛い雑務を免除されていると、小さな嫌がらせをうけた。 行くところもない少年にとっては朝暗いうちから、眠い目を擦ってあかぎれだらけの手足の痛みをこらえ働くより、いっとき男の相手をして、男の与えてくれた本を読んで学ぶことのほうがずっとましだと自分に言い聞かせた。 学ぶことで自分の中に力が湧き上がってくるのを感じたからだ。 商人の男は少年が一度読んだ本をすぐに諳んじられるほどの賢いと気がつくと、逗留中は文字や計算などを教えてくれた。いつかは身請けして自分のもとに囲い仕事をさせてもいいと考えていたからだ。 男は国に帰って酒を飲むと自慢げに少年話をした。 白い花の精のように美しく、真紅に燃える花色の瞳を持っている少年がいると。その瞳の虜になり、宿を訪れていると。 少年の瞳は男に抱かれているときは薄い水のような青から赤い花が咲くように変じるのだそうだ。 それを伝説の乙女になぞられ、花色(かしょく)の瞳と呼んでいた。 男が来ないときは別の男が来るようになった。 それに気を良くした宿の主は強欲な男だったからどんどん少年の値を吊り上げていった。 商人の男もなかなか来られなくなるほどに。 抱かれているとき気持ちを他に向けて耐えようとすると、瞳の色が変わらないと男たちから詰られ、主から折檻を受けた。 どうやら気持ちと瞳の色が連動していると少年は気が付き、できるだけ少ない力で合理的にこの嫌なことを乗り切るため、耐えうるすべを震えながら考えた。 そして至った結論は、相手を憎めば憎むほど、瞳が赤く染まり暗い中でも元の虹彩と相まって目に見えた変化が激しくなると言うこと。 従順で男に夢中なふりをすると相手は優しくなり、逆に少年に夢中になること。 瞳が変化しているかどうかは周りの明かりのの感じ方で判断がつく。 明るい色の瞳のときは光を多く取り込めるからかなり暗がりに強い。暗い赤で染まると暗くなり周りが見えにくくなることで確認していた。 従順に見えて、生来気が強かった少年は男たちと一対一の勝負をしていると考えることにした。 それでも恐ろしさに震えるときは、いつか必ずここを出て生きていこうと未来を信じていた。 学もなく外を知らないお前に何ができると、主は見下し嘲けたが、自分の中にある、なにか特別なザワザワとした力を感じ、それが、人生を変えるなにかではないか。 そう予感めいたものがあった。 いつか誰か自分を必要としてくれる人に 自分の真の心を捧げるために、 ここで折れているわけにはいかないのだ。 そして季節が三つは越えた頃、少年の人生が一変することが起きた。 「やあ、君なのか。美しいね」 男は初めての客だった商人の男と同じくらいの年格好に見え、背が高く整った目鼻だちをしていた。 笑うと目尻にシワがより、人懐っこい顔になる。 見慣れない異国の服装をしているが、身なりも良く上客なのだと思った。 「君、名前は?」 「とくに呼び名は決まっていません…… 白いの、とか。閨では花色の君とか……」 男は、呆れたような憐れむような顔をした。 「名前がないのは不便だな。よし、良いのを考えておくかから、まずはここを出るぞ」 男は寝台に上がることもなく少年に向かって腕をのばした。 「さあ、いこうか」 「行くってどこへ?」 「俺はお前の親の里のものかもしれん。 これからお前を里に連れて行く」 少年は信じられないものを見るような目で男を見上げたが、心は今がその時だと奮い立って、立ち上がった。 「いきます!」 「よし、いい返事だ。俺は話の早いやつが好きだ」 太陽の光のような笑顔で褒められ、 少年の心に明るい何かが宿った。 男は少年の手を取ると、一般客が泊まっているという、少年が入ってはいけないと言われている綾布でかくされた木戸をいとも簡単に開け通っていった。 逃げも隠れもせずにズカズカと歩く男の遠慮なく立てる物音に、宿の入り口付近から慌てて宿の主人と用心棒代わりの屈強な下男たちが出てきて行き先を塞いだ。 「お客様!何をなされるのですか! その子供はこの宿の大切な商品です。 勝手をされては困ります」 「やかましい。俺は俺の里のものを迎えに来ただけだ。宿は前払いで10日分も払っているだろう」 少年はそれをきいて驚いた。最近少年目当てで逗留したものは長くて3日。商人の男が最後に来たときに、お前の花代が最初の20倍になった、中々来られないとこぼしていた。 その商人ですら羽振りがよく、身なりはかなり良かった。 下男や子どもたちと違い、番頭たちと同じ時間に風呂場つかえる少年が噂話に聞いた話だと、この宿の宿代はそもそも相場より高めで、はじめのから少年の花代込ですでにかなり高額になっていたはずだと推測された。 瞬時に頭を巡らせ、この男何者だろうと考える。もっと大事なことをいっていたような気がしたがそこには気を回さなかった。 「このものがお前の里のものであるかなど、どうしてわかるのだ。この子の親はどこから来たのかもわからないような女で、宿にきてすぐに死んだのだぞ」 初めて聞いた親の話に少年は、男の手をぎゅっと掴んだ。 男は、握り返して背に少年を隠すようにして向き合い、懐からだした書状のようなものを主人の鼻先にかざしてみせた。 「ツーイ国ハス州知事の書面だ。この書状を持つもの、州知事権限を委託するとここにあるだろう?俺に盾突くならば知事に申し出よ」 「ハス州知事……」 絶句した主だが、すぐにくってかかってきた。 「このものが里の者である証拠がどこにある」 「お前たちが花色の瞳と呼んでいるこれは変幻魔法の一つだ。 里の女が一人、子どもを連れて行方不明になっている。年の頃もちょうどこのくらいだ」 なにを…… 少年を取り戻そうと掴みかかった男の腕を、ロファが指先でとん、とおす。 瞬間、主の体は爛れたような赤い色になり、 床に転がりのたうたまわった。 「おっと、邪魔だてしたら同じ目に合うぞ」 宿の主の苦しみように、少年は言葉を失った。 男は今度こそ宿の門をくぐって外に出た。 大きな風が吹き、赤や黄色のランタンと少年の生糸のような髪を揺らす。 見上げた空は降り注がんばかりの星空だった。 固く手を繫いだまま、二人は走る。 このときのことは生涯忘れまいと少年は、 息を弾ませながら思った。 この手に自由と暖かさをくれた人に 真の心を捧げようと。
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